Fostex T60RP |
フォステクスのRPシリーズといえば、T50RPを筆頭に平面ドライバー搭載ヘッドホンのロングセラーで、レファレンス的存在です。今回登場したT60RPは、それらをベースに、よりオーディオマニア向けにレベルアップした最新機種で、定価は約35,000円、現在は3万円くらいで流通しているようです。
フォステクス
フォステクスT60RPの公式サイト(https://www.fostex.jp/products/t60rp/)に行くと、取扱説明書のPDFがダウンロードできるのですが、それが単なる説明書ではなく、フォステクスRPシリーズの歴史を紐解く小冊子になっています。歴代モデルのカラー写真や技術解説など、かなり充実した内容なので、ヘッドホンマニアならぜひ一読してみることをお勧めします。歴史ある日本のヘッドホンメーカーとして、こういう失われがちな情報をまとめてくれるのはとても嬉しいです。
この資料を読んでみて、平面振動板の全面駆動型「RP」(Regular Phase)シリーズの初代モデルが1970年代に登場している事に驚きました。そして1980年代には発生モデルが続々登場し、だんだんと現在の形に近づいているのを追って見るのが面白いです。初期のモデルが一体どんな音だったのか非常に気になります。
近頃は高級ヘッドホンブームということで、平面駆動型というのが目新しい高級モデルの特権かのように騒がれていますが、実は40年も前からフォステクスは開発を進めていたわけです。
フォステクス(フォスター電機)というと、ヘッドホンだけでなく、スピーカー全般、特にドライバーにおける世界的なメーカーで、我々が知らないだけで、OEMとして非常に多くの一流オーディオメーカーにドライバーやトータルデザインを供給しています。
自作スピーカー入門といえばフォステクスです |
また、自分の好みに合ったスピーカーを木工作業で作りたい自作マニアのために、半組み立てのキットセットや、バラ売りのドライバー単体などを積極的に販売しているのもフォステクスの特徴です。数千円の部品から簡単に組み上げられる自作入門用の「かんすぴ」シリーズから、マニア垂涎の限定生産高級ドライバーまで幅広くラインナップしており、組み上げてからもあれこれ内部パーツをアップグレードしたり入れ替えたり、末永く楽しめるホビーです。とくに初心者のためにサイト情報が充実しているのも嬉しいです。
そういえば、ちょうどオーディオ業界誌SENKA21の6月号にフォステクスの社長のインタビューがあって、Phile Webにも掲載されていました。スピーカー自作の重要性と、音楽と向き合う事の熱意が伝わってくる内容でしたが、イヤホンやヘッドホンではそれ(リアルな音)を再現することはできない、みたいな事も言っていたので、社長がそれを言って良いのかと笑ってしまいました。
ヘッドホンにおけるフォステクスというと、ドライバー技術に関しては最高峰の技術力を持っているのですが、ほんの数年前までは、ハウジングを含むトータルデザインになると至ってシンプルで、「大事なドライバーを組み付ける、ただのハコ」といった印象があり、ちょっとバランス感覚に欠けていました。
TH900 |
しかし2012年には18万円の密閉型ダイナミックドライバーモデルTH900が登場し、当時は海外勢のHD800、T1、LCD2など、超高級ヘッドホンの幕開けという時代でしたが、その中でも世界的に高く評価され、今に続くロングセラーになっています。
続いて2016年に登場した75,000円のTH610は個人的に非常に気に入っており、発売から現在までずっと私のメインヘッドホンとして愛用しています。特に何が目立つというわけでも無いのですが、バランス感覚が圧倒的に高く、レファレンスモニターと音楽鑑賞を両立できる優秀なヘッドホンだと思っています。
TH500RP |
そんなダイナミックドライバーヘッドホンの進化とは裏腹に、平面駆動型のRPシリーズは停滞気味で、せっかくの技術を消化しきれていないような印象がありました。2014年にはTHシリーズのフォルムにRPドライバーを搭載したTH500RPをリリースし、私も当時これを買いました。アイデアとしては概ね良かったのですが、チューニングのクセが強く、そのあたりを再調整した次回作があれば完璧だろうと期待していたのですが、結局それっきりになってしまいました。
Mr SpeakersによるT50RPのカスタム |
一方海外では、ベーシックなT50RPの評価が圧倒的に高く、こんな素晴らしい音なのに、チープなプラスチック製では満足できないということで、社外品でカスタムチューンアップやドレスアップパーツが多数販売されています。とくに有名な例として、米国のMr Speakersという会社が、T50RPベースでオリジナルアップグレードパーツをふんだんに盛り込んだMad Dog、Alpha Dogといったチューンナップモデルを販売したことは有名です。Mr Speakersはそこから事業が軌道に乗って、現在では自社製オリジナルヘッドホンを作るに至り、最近はEtherやAeonといった高級ヘッドホンが日本でも注目を浴びています。
そんな中で原点であるフォステクスT50RPは、密閉型のT40RP、開放型のT20RPとともに、2016年にはMK3に進化して、より高音質を目指してドライバー技術の更新が行われたました。しかし相変わらず1-2万円という価格帯を見据えたベーシックなデザインを貫いており、部品の質感などはコスト面での制約が大きく、オーディオマニアとしてはもうちょっと上質なモデルがあればと常々期待していました。
T60RP
そんなわけで、T50RPをリスニング用に再調整した上級モデルとしてT60RPが登場したわけですが、これを書いている時点でもう発売から6ヶ月が経ってしまいました。発売当時、私自身はすでに開放型はHIFIMAN HE-560、密閉型はフォステクスTH610という盤石の体制で、これ以上ヘッドホンを買い足す意味もないな、としばらく放置していました。ところが、よくあるパターンなのですが、発売後のネットレビューなどを読むと、T60RPはかなり良いらしく、そうなると気になりはじめました。しかしその矢先にショップ在庫が無くなってしまい、Amazonカートに入れっぱなしで放置していたら、当初の定価35,000円から、徐々に怪しいマケプレ経由の6万円、7万円と値段が吊り上がってしまいました。
結局、正規在庫が安定しはじめたのが3月くらいで、その時点でようやく真面目に試聴して、定価で買いました。
パッケージ
これまでのフォステクスというと、特に低価格モデルでは、楽器屋で壁のフックに引っ掛けて展示してあるようなチープなテカテカの段ボール箱で、高級感とはかけ離れた存在だったのですが、(本来プロ用なのでそうあるべきですが)、このT60RPはイメージが一新され、ずいぶんかっこよくなっています。パッケージはかっこいいです |
中身はスポンジでしっかり作られてます |
黒い厚紙箱には銀色のFOSTEXロゴのみで、商品の情報は帯に集約されています。箱を開けるとヘッドホン本体はスポンジにしっかり収納されており、その下の紙箱にはケーブルと収納バッグや説明書などが入っています。バッグはTHシリーズのような合皮調ビニールではなく、メガネやサングラスに付属するようなマイクロファイバーでした。
自然な木材です |
T60RPが一番注目を集めるポイントは、やはりウッドハウジングです。メーカーによると「アフリカン・マホガニー」という木材だそうです。マホガニーというのは特定の植物種目ではなく、それっぽい見た目の木材の俗称ですが、これはビンテージギターなどでよく知られている中南米のマホガニーとは違う種目の、アフリカで採れる木材です。
質感は見ての通り木目が美しく、綺麗なチェックパターンが現れています。このハウジングはクリアコートされておらず、本当にただ削っただけの無垢材のような質感なので、爺さんがフリーマーケットで売っている日曜大工の工芸品みたいな感じです。まるでオーディオフェアで「試作品」とか書いてありそうな手触りです。
そういえばフォステクスTH-X00も似たような色合いの木材でしたが、あちらはテカテカのクリアコートがあまりにもチープでしたから、むしろ未塗装のシンプルさは良いと思います。使っているうちに摩耗で風合いが出てきますし、ちょっと傷がつく程度なら気にせず気楽に扱えます。多少ボロくなったほうがかっこいいかもしれません。
木材の色合いはかなりばらつきがあります |
ところで、この木材はかなり個体差があるらしく、同じ日に開封した二つのT60RPを並べて見ても、明らかに色合いや木目の加工方向が異なります。写真で左のやつ(私が買ったもの)は濃い茶色で、一方右側のはずいぶん薄いクリーム色っぽいです。
Grado RS1 |
似たような木材を使っているGrado RSシリーズなんかは、数年の間に濃い焦げ茶色に変色していくので、上の写真の二つもそのうち似たような風合いになるかもしれません。幸い左右はマッチしているようで、私が見た限りでは左右の色がバラバラというのはありませんでした。
TH610の木材と比較 |
同じフォステクスのTH610はマホガニーではなく黒クルミという木材でした。こちらは流石に高価なだけあってスムーズな表面処理のサテンフィニッシュに仕上げてあります。それと比べるとT60RPはずいぶんワイルドな印象ですね。
無垢材ということは、暇がある人は、ワトコオイルとか、シェラックでフレンチポリッシュして木目を引き立てて、アンティーク家具調に仕上げるなんてのも面白そうです。
イヤーパッドとヘッドバンド
T60RPの装着感はT50RPから大幅に進化しており、かなり良いです。もちろん個人差はあると思いますが、過去にいくつものヘッドホンを使ってきた私からしても、T60RPはトップクラスに快適で、不満が全くありませんでした。一日に10時間以上装着することもあったのですが、それでも痛さや蒸れなどの不快感が無かったのは驚異的です。側圧は緩く、頭頂部も痛くならず、一見シンプルなデザインなのによくここまで上手に作れたなと関心しています。
ハウジング調整機構 |
T50RP MK3との比較 |
ハンモック構造 |
ヘッドバンドはT50RPのような一体型ではなく、AKGなどのようなハンモックタイプに変更されました。側圧も含めて、実際の装着感もAKG K712とかに近いです。頭に接触する部品は極厚のレザー(?)なので、一見硬そうなのですが、頭にふわっと馴染んでくれます。
RPロゴが見当たらないと思ったら、こんなところにありました |
ヘッドバンド |
Fostexロゴはエンボスです |
ヘッドバンドアーチは頭が触れない部品なのに、なぜかレザー調のカバーが被せてあります。T50RPはここに大きく白いロゴが印刷されていたのですが、T60RPではさりげなくエンボス加工になっています。
T50RP(左)とT60RPのイヤーパッド |
特に大幅な進化を遂げたのがイヤーパッドです。T50RPは潰れたパンみたいな貧相なパッドだったのですが、T60RPのものは上位クラスTHシリーズに近い、前後非対称の立体構造です。
このイヤーパッドは本当によく設計されていると思います。FOSTEXファンとしては、TH500RPではスポンジがパンパンに張りすぎていて肌に馴染まず、TH900やTH600では中心の穴が広すぎて前後の調整が安定せず、TH610でようやく完成形を得たと思いましたが、T60RPではそれと同じレベルの快適さを実現できています。手触りは柔らかく耳周りにピッタリとフィットします。
冒頭で触れたT50RPの社外チューンMr Speakersもイヤーパッドの快適さ向上を掲げていましたが、このT60RPがようやくFostexなりの回答になりました。
Mr Speakersは高価なだけあって、まるで社長室の本革ソファーのような重厚なラグジュアリー感は魅力的なのですが、実際に装着してみると、パッドが薄かったT50RP用のヘッドバンド構造はそのままに、無理やり数倍も厚いパッドを後付けしただけなので、装着するとハの字に広がってしまい、私の場合は耳の下側に大きな隙間が生まれて音が逃げてしまいました。
T60RPではイヤーパッドのみでなくヘッドバンドを含めた全体の設計を見直しているため、そのような問題は起こらず、ピッタリと耳周りにフィットしてくれました。
イヤーパッドとドライバー |
T50RPとの比較 |
イヤーパッドは外周からスルッと着脱できる一般的なデザインです。せっかく外したので中身のドライバーを見てみたところ、ハウジング内側の部品はT50RPとほぼ変わらないようです。
ただしドライバー周辺を囲むスポンジ(写真では横に置いてある部品)が、T50RPの物はドライバー以外のほぼ全面を覆っていますが、T60RPは僅かなリングのみです。
それにしても、フォステクスの四角い平面ドライバーはいつ見ても異色な存在ですね。まるで工事現場に落ちている金具みたいな素朴な見た目の金属板から、どうして良い音が出るのか常々不思議に思います。
ケーブルについて
T60RPがこれまでのRPシリーズと大きく異なる点として、ケーブル周りの設計が改善されました。T50RP MK3のケーブル |
T50RP MK3では片出しツイストロック式3.5mmステレオ端子という特殊な構造だったので、オーディオマニアとしては、社外ケーブルの互換性などについて不満がありました。
それと、このロッキング端子は初期バージョンは接触が悪い個体があり、マイナーチェンジ版のT50RP mk3gでは改善されたようですが、それでもちょっと不安になります。
T60RP付属ケーブル |
TRRSです |
左右の橋渡しケーブル |
T60RPのケーブルも左側片出しですが、一般的な3.5mmストレート端子で、ケーブル素材も派手なオレンジ色のゴムではなく、布巻きの高級品になっています。
さらにオーディオマニアには嬉しい点として、ソニーMDR-1AM2などと同様に、ヘッドホン側がTRRSバランス端子なので、片出しでありながらバランスケーブル化に対応しています。
特に平面型ドライバーはパワフルなアンプを必要とするので、据え置き、ポータブルともに、バランス接続で高ゲインが得られるアンプを使えるのは大きなメリットです。
しかもFostex純正で2.5mm・4.4mm・4ピンXLRといったバランス化ケーブルを、各1万円くらいで販売していますので、これはとても嬉しい配慮です。
ケーブルについて、個人的に唯一の不満点は、布巻きでピンと張った捻れにくい素材で、長さも1.5mということで、ポータブルでは長すぎて、家庭の据え置きアンプでは短すぎるという中途半端な感じでした。たとえばパソコンデスクのヘッドホンアンプと接続するという人なら、ちょうどよい長さです。
ケーブルを作ってみました |
純正の2.5mmバランスケーブルも買ったのですが、まだ届いていないので、待ちきれず自分の用途に合った2.5mのXLRと1mの2.5mmバランスケーブルを作ってみました。
注意点として、木製ハウジングの穴径が9mm、端子面までの奥行きが8mmなので、あまり太い3.5mmコネクターだと挿入できません。逆に言うと、奥行きが結構深いので、スミチューブなどで端子スリーブ径を9mmぴったりに調整すれば、しっかりと入ってグラグラ揺れないので安心できます。HIFIMANとかもこういうのを見習ってもらいたいです。
*追記:公式サイトの画像が正しく修正されました
ちなみに、フォステクス製ヘッドホンでは毎回思うのですが、付属ケーブルの音質がとても良好です。このT60RPでも色々と手持ちの社外ケーブルを入れ替え聴き比べてみましたが、結局純正ケーブルが一番良いと思いました。下手な「アップグレード」ケーブルを使っても、かえって音質のバランスを損ねてしまうリスクがあります。
音質とか
まず普段使い慣れているQuestyle QP2R DAPを使おうと思ったのですが、T50RPと同様に、このヘッドホンは意外とパワーが必要なようなので、結局据え置き型のSIMAUDIO MOON 430HADとViolectric V281を使いました。QP2Rではちょっと音量が不安でした |
Moon 430HAD |
QP2Rも3.5mmアンバランスだと5.2Vpp(1.8Vrms)くらい出せるので、そこまで貧弱なDAPというわけでないのですが、クラシックなどいくつかのアルバムではボリュームを90%くらいまで上げる事があり、心もとないです。音質面でもDAPだとどうしても音が鈍く滲むように感じます。
ちなみにQP2Rはバランス駆動だと約二倍の10.3Vpp(3.6Vrms)が発揮できるので、それだったら問題なさそうですが、あいにく純正バランスケーブルがまだ手元にありませんでした。
どうしてもポータブルで使いたければ、ChordやiFiのように圧倒的な高出力アンプを使うか、もしくはバランス化でゲインを稼ぐのは必須だと思います。ただし、アンプの設計によっては、バランス端子があるからといって必ずしも高音量が得られるとは限りませんので注意が必要です。
インピーダンスと位相 |
ヘッドホンのインピーダンスを測ってみましたが、さすが平面駆動らしく、ほぼ横一直線です。70-80Hz付近に若干の盛り上がりが見えますが、縦軸を見ると51~52Ω程度の幅に収まっています。公式スペックは50Ω・92dB/mWで、T50RP mk3gと同じです。RP(Regular Phase)振動板というだけあって、位相(グラフの破線)は可聴帯域内でまっすぐ一直線です。つまり特定の周波数帯が遅れることなく、全ての音がタイミングよく鳴ってくれる事が期待できます。
T50RPとT60RP |
そんなわけで、いざ音楽を聴いてみると、T60RPのサウンドは評判以上に凄いです。素直に驚きました。一見シンプルで変わり映えしないRPドライバーですが、そのポテンシャルの高さに脱帽します。
全体の傾向はT50RP MK3のサウンドに忠実でありながら、個人的に不満に思っていた点がことごとく解消されており、一気にハイレベルなヘッドホンに進化を遂げています。
一聴しただけですぐ気がつくのは、空間定位の正確さと、その描画力の高さです。たぶん今まで聴いたどのヘッドホンよりも、音像の空間配置というものを積極的に意識させてくれます。よく音が近いヘッドホン、音が遠いヘッドホン、なんて表現をよく使いますが、T60RPはそのようなヘッドホン自体の特徴ではなく、音楽そのものの空間がハッキリと感じ取れ、楽曲ごとに表情が変わります。
まず素晴らしいのは、モノラル音源は音像がビシッとセンターに一直線に並びます。そして、良好なステレオ録音ならば、リスナー前方の一歩離れた位置を最前列として、そこから音像が球面的に広がっていくので、各楽器がどの方角のどの距離にあるかというのが明確に把握できます。音響が手に取るようにわかるので、全ての音楽が新鮮に感じられ、聴き慣れた楽曲でも新たな側面を与えてくれます。
ここがHIFIMAN HE-560やHD800などと大きく異なる点です。それらは解像力は高いものの、ヘッドホン自体に「音が遠い」という個性があるため、各楽器の相対的な距離感はT60RPほどハッキリと区別しません。そこからもう一歩踏み込んだ聴き方をするためには、目を細めて遠くを覗き込むような聴き方になってしまいます。一方T60RPでは、そんな事をしなくても、普段のリスニングの一環として、楽器の空間配置というものが自然に現れてきます。
Avie Recordsからの新譜「Songs of Orpheus」を聴いてみました。古楽ですが、タイトルどおり、モンテヴェルディや同世代の作曲家から、オルフェウス(オルフェ)の神話を扱った曲ばかりを集めたコンセプトアルバムです。古楽の中でも鮮烈な演奏で好評なApollo's Fireオーケストラの演奏を中心に、現在大人気の若手テノール歌手Karim Sulaymanによる美声を主役に置いています。
Avie Recordsはアーティストの自主制作を大事にするレーベルだけあって、こういった突発的な企画盤に面白い物が多く、特に古楽は充実しているので、ジャンルやアーティストつながりで発掘しがいがあります。たとえば同じオーケストラでもっと民族音楽っぽい方向が好きなら「Sephradic Journey」というアルバムも良かったですし、逆に古典的な古楽が好きならParrott指揮Taverner Consortのモンテヴェルディ「オルフェオ」全曲もお薦めできます。
こういうナチュラルな音楽でT50RP mk3gとT60RPを聴き比べてみると、具体的な違いがはっきりと伝わってきます。T60RPは、かなり低い低音まで空間定位がピタッと安定しており、ヘッドホンの存在が完全に消えて、音楽そのものが投影されているようなイメージが得られます。一方T50RPの方は、ある程度の低音より下は、ふわっと緩く消えてしまいますし、テノール歌手など中高域の質感も薄いです。アタックは悪くないのですが、その後の響きがスカスカの軽い音だけが鳴り続け、音色全体の勢いや重さみたいな物が持続してくれないような感じです。
イヤーパッドが薄くて近いからか、プラスチックハウジングだからか原因はわかりませんが、この軽い響きが耳元で延々と広がるのが気になってしまいます。その点T60RPがすごいのは、重低音から輝く高音まで、どの帯域も耳の間近では絶対に鳴らない事です。いわゆるヘッドホン的に耳元で囁いているような聴こえ方がしません。
これはウッドハウジングによる貢献が大きいように思います。わざわざウッドを選んだ理由というと、手作りの温もりとか、木材の豊かな響きとか、年輪に現れるビンテージの味わいとか、そういった側面を強調するメーカーも多いですが、一方フォステクスの場合、TH610の例を見てもそうですが、「プラスチックっぽい響き」「金属っぽい響き」というクセを排除するためには、結局ウッドが一番良いという結論なのかもしれません。それくらいハウジング由来の響きが綺麗に整って、余裕を持たせてくれます。
ウッドつながりで、Grado RSシリーズを思い出したのですが、たしかにT60RPのサウンドは、Grado RS1eのカラッとした鳴り方とも共通点があります。もちろん空間表現が近すぎて雑になりやすいGradoと比べると、T60RPは優等生タイプなのですが、たとえばT50RPからT60RPへの変化というのは、GradoがプラスチックのSRシリーズからウッドのRSシリーズになることで得られる改善効果によく似ていると思います。
今回は二つのソロ・ピアノリサイタルアルバムを聴いてみました。
まず、フランスFondamentaレーベルから、エミール・ギレリス「The Unreleased Recitals at the Concertgebouw」です。
Fondamentaといえば、自身がプロのピアニストであるFrédéric D’Oria Nicolas氏が、身の回りの演奏家たちのアルバムプロデュースを手助けする目的から始まったインディーレーベルですが、最近では、持ち前のコネクションを活かして、ヨーロッパの放送局に死蔵されていた発掘テープを高音質リマスターする事でも有名になっています。
今回はCD5枚組でギレリスが75~80年までアムステルダム・コンセルトヘボウで行ったリサイタルを復刻してくれました。晩年間近の研ぎ澄まされた演奏で、世界に誇るコンセルトヘボウの音響ですから、当時の正規音源と比べても優れている部分も多い、本当に価値のあるリリースです。ライナーノートによると、社長が自身のピアノ演奏会にて偶然ギレリスの孫に出会い意気投合し、祖父の遠征スケジュールが記録されたメモを手渡され、そこから発掘が始まったという事です。実に夢のある素晴らしい仕事だと思います。
もう一つのソロピアノリサイタルは、Intuition Recordsの「European Jazz Legends」シリーズから新譜で、マーシャル・ソラールのライブ「My One and Only Love」です。
ソラールは1950年代から活躍を続けるフランス・ジャズ界の巨匠で、このアルバムは彼の90歳(!)を祝して昨年ドイツのギュータースローにて行われたソロライブの収録です。年齢を全く感じさせない高速テクニックでスタンダードをバリバリ弾く姿は圧巻です。後年の彼の特徴として、一つの音を無駄な手癖で装飾するのではなく、縦方向にハーモニーを連続的に変化させて色彩や感情を変えていく、まるで万華鏡のような手法なので、現在の一流ピアニストでも到底真似できない神がかった演奏です。
なぜ二つのライブ・アルバムを取り上げたかというと、クラシックとジャズ、70年代と2017年という違いもありますが、どちらも欧州のコンサートホールにて、現地の放送局が行った録音というところが大事です。(日本で言うところのNHK放送録音のようなものでしょうか)。入念なセッションの場合、エンジニアがあえて多少の色を付けたりするものですが、こういった定例的な放送録音というのは、無駄な脚色をせず、現場の雰囲気がダイレクトに伝わる音作りのものが多いです。
そんな優秀録音にてT60RPはポテンシャルを発揮してくれます。ソラールのジャズは最前列席で目の前のステージ上の演奏のようですし、一方ギレリスは遥か遠くの二階指定席で、大ホールの音響を周囲から存分に浴びながら、遠くのステージを眺めているような感覚です。どちらもグランドピアノの実在感がハッキリしています。
ここまで音響の分析力が優れていると、T60RPはただ音響を聴くためのヘッドホンかと思うかもしれませんが、そこが面白いところで、実はその真逆です。ホール音響が明確に提示されているので、(自分がどの席で、前方のステージがどんな感じで、楽器がどこにあって、奏者はどこに座っているのか、など)、一旦演奏が始まってしまえば、あとは純粋に音色を追って演奏だけに集中できる環境が生まれます。この鍵盤の音がここから鳴るという予測どおりに再生されるので、違和感無く音楽だけに意識が向けられます。
実際のピアノコンサートに行けばずっと演奏に没頭できるのに、自宅で録音を聴くと集中できないという人は多いと思いますが、こういった音響のリアリズムが正しく再現できていないからというのも一つの理由なのかもしれません。その場合、ぜひT60RPで試してもらいたいです。
LCD-4Z |
比較として、同じく平面駆動型のAudezeからLCD-4ZやiSINE20などを聴いてみました。
まずLCD3・4シリーズはT60RPとは鳴り方のコンセプトが根本的に違います。コンサートホールがなんであれ、楽器の音色がズームアップされ、それ以外の環境音とは別次元の存在感を得ます。個人的に、これは「テレビカメラ的」なんて呼んでいます。コンサートライブ映像を想像してもらえると、映像は頻繁にカメラがスイッチされ、実際の音声の空間定位とは無関係に、たとえば今ソロをやっている奏者にズームインしたりします。LCDというのはまさにそんな感じで、まるでテレビを見ているように、いまその時に聴くべき音を追ってくれるので、リスナーが広大なステージから聴きたい楽器の音を拾うという聴き方とは真逆です。
これがオーディオとして間違っているというわけではありません。LCD-4の強みは、大事なところに寄せて強調されるので、その音の質感が最小単位まで細かく解像してくれる事です。それらをじっくり感じ取れることは、アーティストに間近に迫れますし、ある意味レファレンスモニター的でもあります。一方T60RPは、音響全体としての空間情報は凄いのですが、楽器の一つの音に迫って細部まで聴き取ろうとすると、あと少しのところでフォーカスが甘くなる印象です。LCD-4が望遠ズームで、T60RPがパノラマで全体を撮るような感じでしょうか。余談ですが、LCD-4Zでは明らかに狙いすぎで、全体像がわからなくなるほど派手なので、個人的にはバランスの良いLCD-MX4の方が好みです。
ところで、LCDシリーズやSINE、EL8の欠点として、振動板が安定しておらず、頭を左右に揺らすだけで音量や音色のバランスが狂ってしまうという問題があります。つまり直立不動で静止した状態でないと、まともに音楽が聴けません。
耳周辺がイヤーパッドで密閉され、装着時に振動板がクシャクシャと紙風船のような音をたてるのが聴こえますが、この圧力が釣り合った状態でないと音がまともに鳴らないので、装着のフィット感がかなりシビアです。(ちょっと隙間が空くと台無しです)。一方T60RPはごく普通にパッと装着できて、どんなに頭を振り回そうが音が乱れないのが非常に優秀です。
iSINEではそのような問題が発生しないので、個人的にiSINE20は気に入って購入しています。完全開放型イヤホンという特異な性質上、なかなか使える環境が限られているため、日々愛用しているとまでは言えませんが、良いイヤホンです。
T60RPと比べるとコンパクトなiSINE20は分が悪いです。まず全体的にフラットを維持していますが、ある特定の高音域が(ピアノの打鍵などで)飽和してビビるのが聴こえます。ハウジングの共振でしょうか。
また、iSINEとT60RPでは前後の空間配置の順序が逆のように感じます。ピアノリサイタルだと、T60RPではピアニストが前で、その後ろにステージの反射残響が広がるように聴こえますが、iSINEでは、残響がピアニストを包み込むくらい前まで迫ってくるので、演奏が常に響きの中に漂っているような気分です。イヤホンという構造のせいなのか、コーッという、コップを耳に当てた時のような空気の響きが強調されやすく、とくにコンサートホールのライブ音源だと、演奏のメリハリが弱くなってしまいます。
そんなわけで、T60RPは響きの再現性が優れているのですが、逆にその力が不利に働くこともありました。今回試聴に使ったソラールやギレリスは良好な例ですが、実は先日Tudorレーベルから1970年のJean Boguet演奏ドビュッシー・ピアノ曲集が再販されたので、これも試聴に良いと思ったのですが、上手くいきませんでした。
70年代アナログ黄金期の録音で、珍しくベーゼンドルファーで弾くまろやかなドビュッシーという事で一目置かれており、長年廃盤で手に入りにくかったのですが、今年はドビュッシー没後100周年に乗じて再販されました。T60RPで聴くと、確かにピアノの音響は素晴らしいのですが、楽曲によっては、曲の途中で急に位相が狂ったり、ステレオ配置が動いたり、変なことが起こります。別テイクのツギハギなのか、テープ起こしに不具合があったのか、なにか問題があるようです。他のヘッドホンでも確認できても、そこまで気にならないものの、T60RPだと明らかに目立ってしまい、音楽の流れを削いでしまいました。レファレンスモニターらしいとも言えますが、リスニング用として妥協しないシビアな一面もあります。
ちなみに、T60RPはラフに扱えるヘッドホンなので、外出時のポータブル用途で使えるかどうか気になって試してみました。音楽の音漏れは意外と少ないのですが、残念ながら環境騒音の遮音性はほぼ無いので、通勤通学ではあまり役にたたないと思います。
しかしハウジングによる反響や閉鎖感が全く無いので「ヘッドホンを装着していない」感覚が気持ち良いです。ある程度静かな環境であれば(例えば公園で散歩とか)、T60RPの空間表現の良さとの相乗効果で、まるでヘッドホンを通り越した普段の空間の一部として音楽が鳴っているように錯覚できます。バンドがそのへんの近場で演奏しているようであったり、電子音楽であれば空間いっぱいに散りばめられ、音が空から降ってくるようです。
イヤホンや密閉型ヘッドホンでの聴こえ方とは全く異なりますし、最近流行りのアクティブノイズキャンセリングとは正反対の、自然環境と一体化した音響なので、ぜひ一度試してもらいたいです。
おわりに
フォステクスT60RPは噂以上にすごいヘッドホンで、とても気に入りました。この値段でこの音ですから、絶賛せざるを得ません。全ての周波数帯域において、空間情報が正確に再現されるので、音楽の構成を見通せるレファレンスとしてのポテンシャルが高く、さらに音質・装着感ともに不快感が無く、長時間聴いていられる完成度を誇っています。個人的な好みでいうと、価格を問わず、自分が持っているヘッドホンの中でもトップ3に入ると思います。
他にも色々なハイエンドヘッドホンを持っていますが、T60RPを購入してから二ヶ月が経った今でも、飽きずにずっとこれだけをメインに使い続けています。きっとそのうち目移りするでしょうし、他のヘッドホンにもそれぞれの良さがありますが、日々のリスニングにて、まだそれらを選んで使おうという気が起きません。
なお凄いのは、35,000円という価格です。ヘッドホンというのは結局、ある程度の値段を超えると、あとは個人の好みに合ったものに落ち着くようです。しかし、その「ある程度の」値段というのが、メーカーごとに大幅に異なるのが難しいところです。A社が5万円で作れるヘッドホンでも、B社の製造技術では20万円かかるかもしれません。
フォステクスの場合、T50RPからコスト的な制約を解消することでT60RPが生まれましたが、他社が同じことを試みても、特に小さなガレージメーカーなどは、それが10万、20万円になっても不思議ではないレベルの完成度だと思います。
フォステクス自身もTH900という高価なヘッドホンを出していますが、あちらはハウジングに伝統工芸の漆器加工をすることで、それを含めた価格に納得してもらえる人のためのプレミアムモデルという位置づけを明確にしています。
個人的に、T60RPにはこれといって大き不満は思い当たらなかったのですが、たとえば、家庭でのリスニング用としても十分に通用するヘッドホンだと思うので、1.5mケーブルとは別に、T50RPのように2-3mくらいのものがあればもっとユーザーの範囲が広がると思いました。T60RPと全く同じサウンドで、高級漆塗り仕上げで、左右両出し2~3mくらいのケーブルだったら、きっと10万円でも十分マニアの話題を呼ぶようなモデルになっていたと思います。
ところで、T60RPを聴いていて、つくづく思ったのは、これは旧世代のスタジオモニターヘッドホンの完成形だという印象です。10年前に遡ると、たとえばHD600、DT880、K701(K712)、STAX SIGMAといったヘッドホンがいわゆる開放型モニターヘッドホンのスタンダードでした。今でもクラシックを中心に多くの録音セッションで使われ続けていますし、家庭用としても根強い人気があります。普遍的な良いヘッドホンというと、そんなサウンドを思い浮かべる人も多いと思います。
それらは当時の技術限界のため、今あらためて聴くとクセがあったり、無個性で地味なサウンドのように思えるかもしれませんが、それぞれ目指すところを追求すると、T60RPに行き着くように思います。
一方、現在のハイエンドヘッドホンというと、ユーザーの好みに合わせて様々な試行錯誤がなされていますが、なにか明確な回答があるわけではなく、味付けの異なる様々なヘッドホンが、それぞれ数十万円もの値札が付いています。つまり、ブームというのは、加熱しているうちは良いですが、言い換えると、新たなスタンダードを迎えるまでの過渡期なのかもしれません。
もちろん旧来のスタジオモニターヘッドホンが完璧で、近頃のヘッドホンはダメだと言っているわけではありません。
たとえば、ここ数年、多くのヘッドホンメーカーは、ドライバーに特殊素材や硬質コーティングを施すなどの技術で、微細情報の解像力がずいぶん向上しています。ちょっとやりすぎなほどギラギラと押し付けがましいヘッドホンというのも増えてきましたが、T60RPはその逆で、定位はしっかりしているものの、解像感のフォーカスが甘いというのが弱点だと思いました。
また、近頃は空気の押し出しを充実させるため、ドライバー振動板面積を大きくする事も流行っています。以前は30-40mmくらいの振動板が一般的だったのに、今では60-70mmとか、平面駆動に至っては、HIFIMAN HE1000のように手のひらほど大きな振動板も一般的です。とくに、ハウジングに依存せずリニアに低音まで空気を押し出すという事は、ヘッドホンメーカーにとって大きな課題のようです。そんな中でT60RPも、もうちょっと低音のパンチがあったほうが一般受けしやすいと思いました。他社と同じ理論を持ち出すなら、もしRPドライバーを大型化したら一体どんな音がするのか気になります。
そんな風に、RPドライバーのポテンシャルについて思いを巡らせるのも楽しいですが、現時点で、T60RPは本当によくできたヘッドホンだと思います。しっかりと駆動できるアンプがあることが前提ですが、音源に秘められた魅力をグイグイ引き出してくれて、高音質盤であるほどに魅力が映えるヘッドホンだと思います。
とくに、最新のIEMイヤホンや密閉型ヘッドホンなどの音に慣れている人にとっては、T60RPは全く新しい音楽の聴き方や楽しみ方をもたらしてくれるかもしれません。3万円の高級リケーブルとかであれこれ言うよりは、断然有意義な買い物だと思います。