2021年6月25日金曜日

ゼンハイザー IE900 イヤホンの試聴レビュー

 ゼンハイザーの新作イヤホン「IE900」を聴いてみたので感想を書いておきます。

ゼンハイザー IE900

2021年6月発売、価格は約16万円のダイナミック型イヤホンです。IE800Sを超えるべくゼンハイザー渾身の最上級機ということで、デザインも大幅に更新されました。

IE900

ゼンハイザーといえば、コンシューマー部門をSonovaに分離売却してプロ製品のみに専念するという話が最近ニュースになりましたが、今後もブランドは健在であることを示すかのように、HD560SやIE300、そして今回のIE900など新作を続々リリースしています。

最近の発表では、コンシューマー部門の従業員600人と製造工場がそっくりそのままSonovaに移されるということなので、目下あまり大きな変化は無さそうです。気になるのは、数年後に次の世代の製品群が、これまでと同じ路線を進むのか、それとも新たに方向転換するのか、というところでしょう。

ゼンハイザーの現行イヤホンラインナップはすでにコンシューマーとプロ系列に分かれており、コンシューマーモデルはIE900・IE800S・IE300・IE80Sなど、プロモデルはIE500 PRO・IE400 PRO・IE100 PROがあります。

ゼンハイザーに限らず、コンシューマーとプロモデルの違いというのは音質やチューニングの差というよりも、むしろ主に販路を分ける意図があり、前者がオーディオショップや家電店、後者が楽器店を中心に販売されます。日本ではあまり意識しませんが、海外ではそれぞれの分野に特化した輸入代理店や卸業者が扱っている事が多く、たとえば同一店舗で両方を売ってはいけないなどの取り決めがあったりします。アディダスの三つ葉マークと三角マークの違いみたいなものですかね。

一般的にはプロモデルの方が地味で質実剛健なデザインを想像しますが、そもそもゼンハイザー自体があまり派手なデザインではありませんから、たとえば今回のIE900なんかもコンシューマーモデルだと言われてもプロっぽく見えてしまいます。

パッケージ

今回私が使ったのは海外版なので、日本で流通するものはパッケージなどが若干違うかもしれません。

中身
三種類の付属ケーブル

パッケージの中身もゼンハイザーらしく硬派な仕上がりで、あえてキラキラしたラグジュアリー感は控えめにしているようです。その分だけ肝心の本体が輝いて見えますね。

付属イヤピースと収納ケース以外では、3.5mmケーブルの他に2.5mm・4.4mmバランスケーブルも付属しているのは気前が良いです。線材自体はどれも同じようです。

アルミ削り出し

イヤホン本体のデザインはShureなどと似ているコンパクトなIEMイヤホン形状です。

アルミNC加工の荒削りな仕上がりをあえて残しているのは他に例を見ないデザインアイデアで、「プロトタイプ感」があって良いと思います。スムーズなロゴパネルが対象的に目立ちますし、手に持った時の感触も悪くないです。アルミ削り出しというとCampfire Audioの角張ったデザインなんかも有名ですが、こちらはオーガニックな曲線が美しく、いかにも耳にフィットしやすそうな印象を与えてくれます。

ゼンハイザーといえばダイナミックドライバー単発のイヤホン設計にこだわっており、IE900も最新の16Ωダイナミックドライバーを搭載しています。

他社の高級イヤホンのように大量のバランスド・アーマチュアドライバーを詰め込んで音を調整するという手法も間違いではありませんが、やはり「自社製で優れたダイナミックドライバーを設計製造できる」というのが一流メーカーの証だと思います。自社製ドライバーの特性に合わせて、ハウジングの素材選びや内部音響設計なども同時に行う事で相乗効果を実現できるのも大きなメリットです。

IE900とIE800S

デザインが全く違います

いわゆる王道のIEMデザインです

前作IE800・IE800Sの排気管のような形状のセラミックハウジングと比べてみると、ずいぶんIEMらしい王道デザインになりました。

ケーブルを耳に掛けるタイプのイヤホンが嫌いな人にとってはIE800Sは最後の救世主だったのですが、やはり色々と考慮すると耳掛け式のメリットの方が上回るという判断に至ったのでしょう。

本体がある程度重くなってくると耳掛けに頼らずには正確なフィットが得られませんし(自重で垂れ下がってしまっては出音ノズルの向きが狂ってしまいます)、さらにケーブルが擦れるノイズや引っ張られた時の音の乱れは耳掛け式にする事で大幅に軽減できます。

もちろんIE800Sも現行商品ですから、耳掛け式がどうしても嫌だという人はそちらを買うという選択肢もあります。

IE300とIE900
裏面
通気孔の位置が違います

IE900のデザインは先日発売したIE300とほぼ同じ形状です。アルミハウジングはいかにも重厚そうに見えますが、鋳造ではなくNC加工で内部音響チャンバーをギリギリまで切削しているので、他社の金属製イヤホンと比べると十分軽いです。ちなみにプラスチックのIE300はまるで中身が何も入っていないかのように、拍子抜けするくらい軽いです。

じっくりと見比べてみると、IE900がノズル部分以外は一体型の削り出しなのに対して、IE300は裏面のパーツがはめ込みになっているようです。さらに表面の通気孔の位置が違うのも音響設計のためでしょうか。

実際に装着してみても、こういった耳掛けイヤホンに慣れている人なら可もなく不可もない一般的な装着感です。もっと巨大なマルチドライバーIEMを使い慣れている人にとっては、IE900のコンパクトさはむしろ新鮮というか、「本当にこれで大丈夫なのか」という心配すら感じるかもしれません。

個人的な感想としても、ハウジングの耳への収まり具合や、イヤピースの挿入角度などはShureやWestoneと同程度で、これといって不満はありません。

唯一不満があるとすれば、付属ケーブルの耳掛けが太くて硬いので、これに引っ張られて本体が外れやすい感覚はあるので、できれば(音質デメリットさえ無ければ)もっと耳掛けが細い社外品ケーブルに交換したい、と思った程度です。

イヤピース

IE900はイヤピースが一般的なサイズになって、多くの社外品が使えるようになりました。IE800Sは特殊な形状で社外品との互換性が悪かったので、それが理由で敬遠していた人も多かっただろうと思います。(必ずしも付属イヤピースが自分の耳にフィットするわけではありませんし、紛失した際のスペアを手に入れるのも面倒です)。

先端にグリルがあります

内部にメッシュが

ただしIE900の付属イヤピースは先端が特殊なグリル形状になっていて、さらに内部にメッシュが詰め込まれており、これを含めた音響設計を行っているようなので、社外品に交換すると鳴り方がずいぶん変わってしまいます。やはりゼンハイザーはこういったところが一筋縄ではいきませんね。

二段階になっています

さらに、純正イヤピースはノズル中間に引っかかる溝があり、挿入位置が二段階から選べるというギミックがあります。どうせ耳に装着する時に動いてしまうだろう、と懐疑的だったのですが、実際に試してみると、意外とグッと押し込んでみても中間位置で保ってくれます。

このギミックは確かに鳴り方が劇的に変化するので、あらためてIEMイヤホンにおけるイヤピースの重要性を教えてくれます。

本体が耳から離れた状態にすることで、音楽の空間展開が遠くに広がり、個々の楽器音像もまさに「頭外」に配置されているように聴こえます。一方、ノズルを奥まで押し込んだ状態にすると、本体が鼓膜に近づくため楽器音像が間近に迫ります。

これらのどちらが良いかというのは、なかなか難しいです。空間展開が広い方が開放型ヘッドホンみたいで、確かにIE900の位相管理の正確さを見せつけてくれるのですが、音色の質感はフワッとぼやけてしまうので、その点ではイヤピースを押し込んだ方がIE900の解像感の高さを実感できます。

どちらが正解というわけではないので、二つのモードが選べるのは良い事です。私だったら、普段はモニター的に音楽の細部まで観察するためにイヤピースを押し込んで使って、自宅でゆったりと音楽鑑賞を楽しみたい時にはイヤピースを引き出すような使い方をするだろうと思います。

また、社外品イヤピースを使う場合も、形状(とくに長さ)によってこれだけの音質差が生まれるという事を意識させてくれます。

AZLA Sednaを装着

イヤピースはメーカー純正の付属品を使うべきか、それとも普段から使い慣れている自分の耳にフィットする社外品を使うべきか、というのは判断が難しいところで、今回の試聴では私もずいぶん悩まされました。

このあたりは各自の耳穴形状や使用状況によっても変わるので、なんとも言えないものの、少なくとも私が今回色々なイヤピースを試してみた結論としては、純正イヤピースは密着度というか耳栓っぽさはあまり強くなく、フィットに不安があるものの、サウンド面では一番良い(というかゼンハイザーが意図したサウンドが得られる)という印象でした。

一方、出先でポータブルに使う場合では、そこまでサウンドにシビアである必要はありませんから、遮音性重視でもっとピッタリとフィットする別のイヤピースの方が良いかもしれません。AZLAやFinalなど色々と試してみた結果、SpinFitがIE900純正に近い音と密着感の向上が両立できるように思いました。

ともかくIE900はイヤピースによる音質変化にかなり敏感なので、まずは純正品をレファレンスとした上で色々と試してみる事をおすすめします。

ケーブル

近頃のゼンハイザーのコンシューマーモデル(IE900・IE300)はケーブル着脱端子にMMCXを採用しており、一方プロモデルはPentaconn Earを使っています。

個人的にはMMCXよりもPentaconn Earの方が優れていると思うので、今回IE300・IE900でもぜひ採用してもらいたかったのですが、さすがにMMCXがこれだけ普及している状況を踏まえると、ゼンハイザーとしてもコンシューマーモデルにはMMCXが得策だと考えたのかもしれません。

一般的なMMCXだと赤い部品がぶつかります

ちなみにMMCX・Pentaconnとは明言せずに「ゼンハイザーオリジナル端子」という扱いになっており、どちらも本体の端子が奥まった構造で、一般的な社外品ケーブルでは接続できないようになっています。汗の侵入防止というメリットと、社外品ケーブル互換性サポート対応の煩わしさを未然に避けるための手段でしょう。

Effect Audioのケーブルは接続できました

ちなみに私の手持ちのケーブルでは、Effect Audioの安いMMCXケーブルはスリムな端子形状のおかげでIE900に無事接続して使えました。

インピーダンス

IE900のインピーダンスをIE800S・IE300と比べてみました。さらに、最近の優れたダイナミック型イヤホンの例として、Dita Dream XLSとAcoustune HS1697Tiも重ねてあります。

インピーダンス

グラフを見ると、IE900は公式スペックの16Ωを可聴帯域全体できっちりと維持しています。

IE800SやIE300も同じような傾向なので、さすがゼンハイザーらしく生真面目な設計ですね。このように安定したインピーダンス、つまり純粋な抵抗負荷に近い挙動というのはダイナミック型の大きなメリットだと思います。アンプ側から見ると、どの周波数帯でも均一な負荷なので駆動が楽です。

同じくダイナミック型のDream XLSとHS1697TiもマルチBA型などと比べれば確かにフラットなインピーダンス特性ですが、それぞれ高音域に若干のピークが見られます。金属ハウジングやドライバーの共振点でしょうか。それらと比べるとゼンハイザーの徹底ぶりはやはり設計ポリシーなのでしょう。

音質とか

今回はゼンハイザー渾身の最上級機ということで、試聴にも気合が入ります。主にIE800S・IE300と比較してみましたが、それ以外にも有望そうなイヤホンを手当り次第聴き比べてみました。

ソースには、普段から使い慣れているHiby R6PRO DAPと、iFi Audio micro iDSD Signature、Chord Hugo TT2 + M-Scaler、そしてドイツのメーカーつながりでRME ADI-2 DAC FSも使ってみました。

Hiby R6 PRO

まず最初にはっきり言ってしまいますが、IE900のサウンドはさすがに凄いです。帯域の統一感と精密さという二点においては、これまで聴いてきたイヤホンよりもワンランク上の、新たな次元に到達しているように感じます。

名実ともにゼンハイザーが目指したレファレンスサウンドを見事に実現している事が実感できますが、ただし、高解像ゆえに音源やアンプなどへの要求も極めて高いため、カジュアルな使い方には向いておらず、なかなか使い所が難しいイヤホンでもあります。私自身も、いざ購入しても使いこなせるか、という点でためらいがあります。

RME ADI-2 DAC FS

アンプ選びに関しては、個人的にはRME ADI-2 DAC FSでの鳴り方が一番好みに合いました。

とりわけ鳴らしにくいイヤホンでもないので、適当なDAPなどでも十分良い音で楽しめると思います。しかしIE900の性格上、上流機器の音質が露見してしまうため(イヤホンの味付けによる上塗りがほとんど無いので)、味付けが濃いヘッドホンアンプでは解像感不足がどうしても気になってしまいます。

その点ADI-2 DACはスッキリした解像感重視の鳴り方で、余計な小細工をしない点がIE900と相性が良いです。ADI-2 DACは雑味の多いイヤホンだとシビアすぎて使いづらいこともあるので、適材適所といったところでしょう。

ケーブル交換

ケーブルについては、IE900の純正ケーブルは太くて若干使いづらいため、他のケーブルに変えた方が装着感は快適になるのですが、やはりIE900自体がかなりクリーンな鳴り方なのでケーブル交換による音質差も目立ちやすいです。

とりあえず物理的に装着できるEffect Audioの安いケーブル(Maestro・Virtuoso・Grandioso)を試してみたところ、IE900純正ケーブルの線が細いカチッとした鳴り方と比べると、Effect Audioはそれぞれ周波数バランスは若干変わる印象があるものの、全体的に音が柔らかくスムーズになる傾向がありました。

カジュアルに使うなら、これら社外品ケーブルの方が扱いやすいと思いましたが、サウンドもカジュアルでスムーズになってしまため、長く使っていると飽きてきて純正ケーブルに戻したくなってしまいます。

このあたりの傾向はHD800やHD600シリーズと似ているのが面白いですね。そちらも純正ケーブルは音が細くて、社外品ケーブルに変えたほうが音色が豊かになるのですが、一周回って結局は純正ケーブルが本来の設計意図に一番近いように思えてしまうのがよくあるパターンです。


純正ケーブルに戻して、IE900のサウンドをじっくりと聴いてみると、まず真っ先に思い浮かぶのは「無着色」というイメージと、開放型ヘッドホンのような音抜けの良さです。まるで大きな製図用紙に描かれた建築設計図を見渡しているかのように、音楽の全体的な空間構成と細部のディテールが両方同時に把握できます。

ハウジングの通気孔のおかげか、いわゆる耳栓のような感覚があまり無く、開放型のような広い距離感があります。スケール感が大きくてもフワフワ響いて掴みどころの無いイヤホンや、虫眼鏡的に高解像でもまとまりの無いイヤホンなんかはよくありますが、それらとは全く異なるレベルで「全体が見渡せる」感が凄まじいです。

「高音は」「低音は」「歌手は」と、帯域ごとのバランスをどれだけ念入りに調整していても、ドライバーごとの立ち上がりや引き際の違いであったり、クロスオーバーのすり合わせや、ハウジングの共振点であったりで、どのイヤホンにも必ずなにかクセがあるところ、IE900ではそういった引っ掛かりが一切感じられません。

アルミハウジングでも高音にキンキンした響きや硬質なアタックのクセがなく、さらにダイナミック型にありがちな低音のわざとらしいパンチや圧迫感も皆無なので、とにかく最低音から最高音まで出音の質感にばらつきが無い、というのが常に感じられます。

すべての帯域の立ち上がりのタイミングと、残響の引き具合、そして位相がぴったりと一致しているおかげで、低音から高音まで無理無く一直線に伸びていく感覚は、HD660SやHD800Sなど開放型ヘッドホンの鳴り方に近いです。位相が安定しているため、最低音に至るまで空間の広さや楽器の距離感もリアルに再現されます。

帯域の繋がりの良さというのは、気にする人にとっては非常に気になる点なのですが、普段聴く音楽ジャンルによっては、あまり意識していない人や、オーディオ機器の音質を評価する上で考慮していない人も結構多いかもしれません。

たとえば、ポップスのピアノを例にすると、打鍵の高次倍音がボーカルやパーカッションとかぶらないように高音をカットして、筐体と床の重厚な共振がベースやドラムとかぶらないように低音をカットする、といった具合に、ピアノの音に使う帯域がきっちり制限されているので、リスナーは各楽器ごとに与えられた帯域のみに集中して聴けば良いだけで、帯域間の繋がりや鳴り方の違いというのは重要視されません。つまり極端に言えば、そういった作品はマルチドライバーIEMで聴いても十分高音質に聴こえるので、わざわざIE900を使っても宝の持ち腐れということになります。

ところで、先日Sound on Sound誌でインド伝統音楽のレコーディングエンジニアの記事があったのですが、彼いわく西洋のポップスでは各楽器の帯域レンジがかぶらないようにそれぞれ帯域を制限したパートを並べていく手法を使うところ、インド音楽では全楽器の合奏が多く、石造りの神殿など環境音響も含めての楽器音として認識するため、ポップスと同じミックス手法では全然上手くいかない、というような話がありました。これはインド音楽に限らず、ジャズやクラシックでも同様です。

たとえばピアノだけに可聴帯域全体を惜しみなく使っている録音であったり、オーケストラの配置や指揮者の足踏みから空調のファンに至るまで、コンサートホール全体の空気感を包括して再現しようとする録音など、現実味のある自然な音響を大事にしている音楽作品において、IE900は真価を発揮してくれます。そういう作品を聴いてみると、他のイヤホンと比べてIE900のポテンシャルの高さを実感できます。

参考に、今回の試聴で楽しめたアルバムをいくつか紹介します。

BISレーベルから新譜で、グルズマンのベートーヴェン・ヴァイオリン協奏曲は、とにかくヴァイオリンの音色が凄まじく美しいです。

ストラディバリ1690年作、チャイコフスキーがヴァイオリン協奏曲を捧げたアウアーが当時使っていた銘器です。カデンツァがシュニトケ作なのが好みが分かれるという点を除いては、かなり王道な演奏です。

せっかくの美しい音色も、響きが濃いイヤホンやアンプを使ってしまっては台無しになってしまうので、IE900の無色透明な鳴り方が本領発揮してくれます。

Channel Classicsから久々のリリースで、フィッシャー兄のブラームス三番が出ました。コロナ下でのセッションということもあってか、DSDではなくDXDでの録音というのが珍しいです。

演奏は意外にも硬派で熱量のあるスタイルです。もうちょっと牧歌的というかメロディ重視の演奏かと思っていたので意表を突かれましたが、これはこれで良いと思います。

オケ録音では、平面的な楽器音中心の表現から、サンプルレート・ビット深度が上がるにつれて、音場の広さやスケール感(空間全体を描く能力)が向上する傾向があるのですが、とくにDXD(PCM 352.8kHz・32bit)ともなると鳴らし切るイヤホンというのはなかなかありません。IE900は同じ音源のフォーマットの違いもしっかり聴き分けることができるので、レファレンスモニターとしての性能が一級品です。

奇遇にもフィッシャー弟の方もデュッセルドルフでのマーラー二番が登場しました。あとは六番のみで全集完成です。

こちらはコンサートホール空間の余裕をうまく活用したスッキリした演奏です。濃厚なマーラーを求めている人には物足りないかもしれませんが、決して無難な淡々とした演奏ではないので、繰り返し愛聴できる名盤だと思います。

ライブ録音なので椅子がギシギシ鳴っているのが気になりますが、そういう環境騒音も含めて、ライブ会場のリアリズムをうまく再現することに貢献しており、IE900の空間描写の上手さが活かされます。

IE900でジャズを聴くとなると、なんとなくデンマークのStoryvilleレーベルを思い浮かべます。昔のContemporaryとかを連想させるような、スッキリしたキレのよいスタイルがゼンハイザーの音に合うのかもしれません。

Thomas Hass Quartet 「West」は2019年のアルバムで、リーダーのテナーサックスをLars Janssonのピアノトリオがサポートするカルテットです。ウェストコーストとECMを混ぜ合わせたようなクールで緻密な演奏で、ベースが中心となって、ドラムは自由な装飾を加えるような作風です。とくにベースのメロディラインが肝心なのですが、多くのイヤホンでは上手く聴き取れないか、タイミングが揃わずアンサンブルのグルーブ感が損なわれるところ、IE900であればしっかりとメロディを追う事ができます。

Storyvilleレーベルつながりで、ピアノとベースのみのデュオCarsten Dahl & Eddie Gomez 「Live at Montmartre」もIE900でぜひ聴いてもらいたいです。

この作品が面白いのは、ピアノとベースをステレオの左右に振り分けるのではなく、あえて前後の奥行きで表現することで、演奏と音色のインタープレイがリアルに描かれています。

下手なイヤホンだと、ベースは膨れ上がり、ピアノのアタックが耳障りに刺さり、両者が顔面間近で重なってしまいます。とくにベースというのは帯域がとても広い楽器なので、大口径開放型ヘッドホンでもなければ自然な鳴り方(立ち上がりと引き際のレスポンス)を再現するのは困難なのですが、IE900はそれを見事に実現してくれます。高音もクリアではあるものの、余計な響きは加わっておらず、耳障りには感じません。

ぜひこれらの作品を聴いてみて、IE900の真価を体験してもらいたいです。というか、逆にIE900に慣れてしまってから、同じ曲を他のイヤホンで聴いてみると、「こんなに響きのクセが強かったのか」と驚かされるかもしれません。具体的には、ダイナミクスの圧縮感や、低音のタイミングの遅れなどです。

もちろん他社のイヤホンをディスっているわけではなく、たとえばゼンハイザー自身のIE800S・IE300と比較しても、IE900の凄さは群を抜いています。

IE300・IE900・IE800S

IE800SとIE300はそれぞれ異なる理由から、IE900と比べて今一歩至らないと思えてしまうところが面白いです。

まずIE800Sについてですが、正直なところ、私自身はIE800・IE800Sはあまり好きなイヤホンではなく、これまで一度も買ったことがありません。丁寧な鳴り方のイヤホンだとは思うのですが、高音も低音も行儀良く丸く収まっていて、決して破綻しないように注意深く調整されたようなサウンドなので、どうにも退屈で面白味がありません。これを買っても、きっと他のメーカーの派手めなイヤホンに浮気してしまうだろうな、という心配があります。

その点、IE900は基本的にIE800Sの丁寧さを維持しながら、空間・帯域の両方の限界が広がり、まるでリミッターが解除されたかのような凄みがあります。しかも、IE800Sが本来持っている鳴り方を邪魔するような演出ではなく、あくまで拡張される感覚です。IE800Sを基本として、新技術を惜しみなく投入することで、歪や濁りを出さずにどこまで帯域やダイナミクスを拡張できるか、技術の限界に挑戦しているかのようです。

IE300とIE900の比較も面白いです。両者は外観からは兄弟機のようですし、サウンドの設計も同世代のはずです。

IE300の場合、IE900と同じようなチューニングと広帯域な鳴り方を目指したものの、その内容が雑だと感じました。IE900の廉価版と考えれば「まあこんなものかな」とも思えますが、約4万円という価格設定では、とくに最近の中華イヤホンとかの相場を考えると、もうちょっと頑張れたのではとも思えてしまいます。

IE300発売時に試聴した時は「なんで限界を超えるほど無理してまで、こんな鳴り方に仕上げたのか」と疑問に思ったのですが、その後にIE900を聴いてみて、なるほど現在のゼンハイザーの目指すサウンドチューニングはこういうもので、IE300はそれを目指していたのか、と腑に落ちました。

とくにIE900の長所である「帯域のつながり、鳴り方の統一感」というのが、そっくりそのままIE300の弱点になります。つまり、最高音や最低音など、各帯域はIE300でも十分健闘できているものの、それぞれの鳴り方に統一感が無く、せっかくのダイナミック型なのに、まるでマルチドライバーハイブリッド型のように聴こえてしまいます。

低音は量感を得るためにプラスチックハウジング内でモコモコと反響させており、空間定位とレスポンスが悪いですし、高音はプレゼンス帯が鋭く目立つように際立たせています。「ベーシックなダイナミック型イヤホンをハイレゾ高解像っぽく聴こえるよう尖ったエッセンスを加えたサウンド」というイメージなわけですが、先程も言ったように、帯域の統一感を重視しない楽曲を聴くなら、これでも十分高音質で楽しめます。しかし、いざ上で挙げたような生楽器演奏を聴くと一気に破綻します。

4万円のIE300に多くを期待するわけにもいきませんし、16万円のIE900とは大幅な価格差があります。ようするに、IE300の低音の濁りや高音の響きなどの弱点を地道に潰していくことで、最終的にIE900が生まれるのだと思います。一方IE800SはあくまでIE800(2012年発売)の進化型であって、一世代前の設計思想です(音が悪いという意味ではなく、チューニングやデザイン思想の限界が低いという意味です)。

そんなわけで、もしゼンハイザーがIE300とIE900のあいだに8万円くらいのモデルを作ってくれたとしたら、一体どれくらいIE900に迫ることができるのだろう、というのは非常に気になります。

AK T8iE・Acoustune HS1697Ti・IE900

IE900は生楽器中心の高音質録音では圧倒的なポテンシャルを見せつけてくれます。しかし今回色々と試聴してみたところ、逆に相性が悪い楽曲もたくさんありました。そういった場合では、同じダイナミック型イヤホンでも、私が普段使っているAK T8iEやHS1697Tiなんかのほうが自分の好みに合うので、私にとってIE900は完璧というわけではなく、なかなか使い所が難しいイヤホンだという印象が強いです。

冒頭でも言ったように、自然な音響を求めていない録音作品では、IE900は宝の持ち腐れですので、もっと別のイヤホンでも十分楽しめると思います。

そして、個人的にIE900の一番の弱点だと思ったのは、1950年代などの古い録音に対してあまり寛容ではないことです。それらの音源よりもIE900の性能の方が帯域もダイナミクスも圧倒的に広いため、どうしてもシビアになりすぎて、録音の不具合ばかりが耳についてしまいます。

とくに、古い録音は高音が8kHz程度で終わっているケースが多いので、そういうのをIE900で聴くと、明らかに音抜けが悪く、詰まったような感じの「天井」を意識してしまいます。

そんなのは録音自体の問題なのだから、他のイヤホンで聴いても同じではないか、と思うかもしれませんが、案外そうでもありません。特に私が気に入っているDita DreamやHS1697Tiなどのイヤホンは、硬質な振動板とチタンなど金属ハウジングの複雑な効果によって、録音本来の音色の上に、艶と輝き、生っぽい緊張感や空気感のようなものを加えてくれます。

ただし、実際の楽器に使われる真鍮を多用するなど、あまりにも美音にこだわりすぎるイヤホンでは、逆にどんな楽曲でも同じ響きで塗りつぶされてしまうため逆効果です。もちろんドライバーの性能が不十分で高音の伸びが悪いイヤホンでもダメです。多くのハイエンドイヤホンは、実直過ぎず、味付けが濃くなりすぎない、絶妙なポイントを目指しています。

そもそもオーディオに余計な味付けなどは無用、原音忠実であるべきだ、と指摘されるかもしれませんが、優れた演奏は必ずしも優れた音質とは限らないので、それらを最大限に楽しむためにも一筋縄ではいかない趣味です。良い音楽を音質が悪いからと敬遠して、高音質盤ばかり聴いてしまっては本末転倒ですので。

ではDSPやアンプで味付けすれば良いのでは、というと、たしかにそれも良いと思いますが、個人的にはイヤホンによる音波の振動の方が、実際の生楽器の音との相乗効果による艶っぽさや輝きを出すのが得意だと思います(あくまで好みの話です)。

また、古い録音はダイナミックレンジが狭いため、ノイズフロアや音割れも気になります。そういった場合も、IE900では赤裸々に見透かしてしまうので、音楽に集中できなくなってしまいます。その点たとえばAK T8iEやJVCのウッドシリーズなど、中低域が豊満で重みのある鳴り方をするイヤホンの方が、そのあたりを上手くブレンドしてくれて、聴きやすくなります。こちらもやりすぎるとモコモコした不明瞭な音になってしまいますが、優れたイヤホンであれば、ベースなどの表面の質感のザラつきを抑えて、立体感や弾力のある、力強い鳴り方に仕上げてくれるため、ノイズよりもリズムに乗って音楽を楽しむことができます。

そんなわけで、IE900はたしかに凄いイヤホンであることは認めるものの、私が個人的に普段イヤホンでどんな音楽を聴いて、どんな環境で使うのかと思い返してみると、IE900よりももうちょっとカジュアルに親しみやすい味付けをしたイヤホンの方が好みに合っていると思いました。

IE900を買ったら高音質録音が聴きたくなり、そうなると屋外の騒音下でポータブルDAPで鳴らすのも勿体ないので、それなら自宅の静かな部屋でADI-2 DAC FSなどの卓上アンプで使いたくなり、それならヘッドホンを使えば良いのでは、と考えると、なかなか購入に踏み切れません。

逆に考えると、普段からHD800Sなどの大型ヘッドホンと据え置きアンプを自宅のリスニングルームで使っている人で、同じような環境をもうちょっとコンパクト化して、リビングや寝室に持ち出したい、と考えているなら、下手な小型ヘッドホンとかを買って妥協するよりも、IE900を選んだ方が満足度は高いと思います。

おわりに

ゼンハイザーIE900はまさにフラッグシップ機としての期待を裏切らない、むしろそれ以上に素晴らしいイヤホンでした。IE800Sからの大幅な進歩が実感できると同時に、ゼンハイザーらしい正確でスッキリした音抜けの良いサウンドチューニングは、IE800Sのオーナーにとってもアップグレードする価値は十分にありますし、HD660S・HD800Sヘッドホンの鳴り方に迫るポテンシャルを持っています。

最近のイヤホンで流行っているハイブリッドマルチドライバー構成や、複雑なクロスオーバー、静電ユニット、交換モジュールなど、他社がありとあらゆる奇抜なアイデアで優位性を主張しているのに対して、「シングルダイナミックドライバーとアルミハウジング」という、あまりにも簡潔で普遍的な構成でありながら、ここまで徹底的な音響設計を実現できたことは、乱立している高級イヤホンメーカーに対して正真正銘の「本物」の腕前を見せつけるような存在感があります。

精密なディテールと広大なサウンドステージというIE900ならではの特徴は、プライベートな静かな環境でこそ本領発揮できるので、たかがイヤホンだからと甘く見ないで、あくまでハイエンドスピーカーや大型ヘッドホンと同じレベルで接するべきだと思います。

16万円と大変高価なイヤホンですが、レファレンスモニターとして十分通用するサウンドなので、同等のアクティブモニタースピーカーや開放型ヘッドホンなどと比べても、十分価格相応の能力は持っていると思います。さらに、耳にフィットしやすい小型軽量デザインは他社の巨大な高級IEMイヤホンと比べると扱いやすいので、普段あまりイヤホンを使い慣れていない人にもおすすめできます。

私自身はもうちょっとカジュアル風味なイヤホンをラフに持ち歩きたいので、IE900はちょっと用途が合わないため、できれば今後10万円以下くらいで何か良い発生モデルが出てくれないかと期待しています。

また、余談になりますが、ゼンハイザーといえば個人的にはIE60・IE80(IE80S)がとても好きで、今でも使う機会が多いです。ハイエンドとは言い難いものの、親しみやすく温かみのあるサウンドは夜寝る時のBGMとかに最適です。このようなセミオープンダイナミック型イヤホンというのは他になかなか候補が無く、近頃の中華系メーカーもまだ手を出していない(気づいていない)ジャンルなので、どうにか近代的にブラッシュアップしたモデルでも出してくれないかな、と密かに期待しています。トゥルーワイヤレスを出したほうが売れ行きが良いと言われればもっともなのですが。

なんにせよ、世界的な大企業でここまで真剣にイヤホン設計に取り組んできたメーカーというのは非常に稀な存在です。これまで様々なトレンドに脇見せずにダイナミック型イヤホンの開発を着々と進めてきたからこそ、現在のIE900があるのだと思います。(その点ソニーとかもEX1000を突き進めていたらどうなっていたかと想像しますね)。

IE900はシビアなイヤホンではあるので、誰にでも安易におすすめできるわけではありませんが、2021年現在のレファレンスとして、IE900を聴かずに他の高級イヤホンをあれこれ語るのは実に勿体ないです。ぜひ聴いてみてください。