Grace Design m903 |
2011年に購入してから5年間、ずっと自宅のメインヘッドホンアンプとして愛用してきました。重度のヘッドホンマニアとして、これまでに何十台ものヘッドホンを購入していながら、ヘッドホンアンプはこのm903を使い続けていたので、相当な愛着があります。
今回、思うところがあり、ようやく手放すことになりました。とはいっても音質に不満があるわけではなく、本当に素晴らしい製品だと思うので、この期会に簡単に紹介しようと思いました。
ちなみに2016年現在、DAC部分がさらに高性能になった後継機「m920」が販売されていますが、外観や操作性はm903とほぼ一緒です。
Grace Design
グレースデザインという会社は、いわゆるプロ用のレコーディングスタジオ機器メーカーです。我々ホームオーディオマニアにとって有用な商品は今回紹介するm903ヘッドホンアンプのみで、それ以外の製品ラインナップは、マイクプリやラインプリ、コンプレッサーなど、録音用機器に特化しています。m201マイクプリ |
公式サイトの中に、同社の機材を導入しているレコーディングスタジオのリストがありますが、超大手スタジオから、アーティストのホームスタジオまで、膨大な数が紹介されています。(http://www.gracedesign.com/users/clients.htm)
繊細なヘアライン加工やクロムメッキパーツなど、m903を含めて、どのモデルも一般的な業務用のイメージを超越した美しいクオリティを誇っているため、なんというか、録音サイドにおける「ハイエンドオーディオ」といった位置付けです。
m102コンプレッサー |
レコーディングスタジオの備品として乱暴に扱うような機材ではなく、音質にこだわりのあるエンジニアやアーティストが、自分のセッションに「持ち込み」で活用するような、趣味性の高い製品です。そのため、どの製品もコンパクトで高品質に仕上がっていることが、家庭用オーディオとしても通用する魅力なのだと思います。
日本での知名度はあまり高くない会社ですが、一部の楽器店や、業務用機器を多数扱っているフジヤエービックなどでたまに見かけます。
現行モデルm920 |
このGrace Designの大きな魅力の一つが、コロラド州ロッキー山脈にある本社の一角で製造されているということです。
ところで、コロラド州というと、一般的にはスキー場とかログハウスなんかを連想しますが、実はアメリカにおけるハイエンド・オーディオの中心地だというのが不思議なものです。AYRE、Boulder、PS Audio、Avalon Acousticsなど、超一流メーカー本社がうじゃうじゃとありますし、アメリカ最大のオーディオフェア「ロッキーマウンテン・オーディオ・フェスト」も毎年コロラドで開催されます。
MADE IN USAです |
多分、山脈と雪や緑に囲まれた、のどかな環境と、一流の工業大学や政府機関の研究施設などが豊富にあることが、オーディオメーカーとして理想的な環境なのかもしれません。(広々とした敷地でスピーカーをガンガン鳴らしても、だれも気にしませんし・・)。
また、m903は、プロ用機器としても珍しい5年間保証(一部の製品においては20年保証)という長期のメーカー保証期間を設けていることも、信頼性の高さを表しています。
Grace Designのヘッドホンアンプ
今回紹介するm903は2010年発売のモデルですが、その前身として、2003年のm901、2005年のm902というモデルが存在しました。
m903の後継機はm904という名称になると思ったのですが、実はもうすでに別の製品でその名前を使ってしまったため(大型マルチチャンネルモニターコントローラー m904)、結局2015年の後継機はm920になりました。
m903の後継機はm904という名称になると思ったのですが、実はもうすでに別の製品でその名前を使ってしまったため(大型マルチチャンネルモニターコントローラー m904)、結局2015年の後継機はm920になりました。
業務用モニターコントローラーm904 |
初代m901が発売された2003年というと、同じくアメリカからやってきた「Benchmark DAC1」という製品が、世界各国のオーディオ業界で一世を風靡した時代です。 それまではいわゆる「ハイエンド、ピュアオーディオ」と格付けされるような重量級オーディオシステムばかりが信奉されていた中で、Benchmark DAC1の登場で、いきなりコンパクトな「デスクトップDACプリアンプ」というジャンルが確立した、一種のターニングポイントです。
超弩級ハイエンド機ばかり持ち上げていたStereophileやThe Absolute Sound誌が急に手のひらを返したかのようにDAC1の高音質を絶賛してたのを当時不思議に思っていました。
PCオーディオの火付け役「Benchmark DAC1」 |
超弩級ハイエンド機ばかり持ち上げていたStereophileやThe Absolute Sound誌が急に手のひらを返したかのようにDAC1の高音質を絶賛してたのを当時不思議に思っていました。
Benchmark DAC1以前にも、ローランドやMOTUなどによるスタジオ用Firewire DACオーディオインターフェースは沢山ありましたし、DAC1のヒット後は、似たような亜種がたくさん現れたのですが、Grace Designはその中でも音質・性能ともにトップクラスの製品です。
この頃流行りだした、PCから音源を再生する「PCオーディオ」というジャンルですが、Benchmark DAC1を含む当時のPCオーディオ機器は、鋭いメリハリのある音作りで、若干硬質で聴き疲れする製品が多かったです。
当時のハイレゾDACは業務用で多機能すぎるのが多かったです |
私も使っていたRME Fireface 400 |
この頃流行りだした、PCから音源を再生する「PCオーディオ」というジャンルですが、Benchmark DAC1を含む当時のPCオーディオ機器は、鋭いメリハリのある音作りで、若干硬質で聴き疲れする製品が多かったです。
そのほうがスタジオ機器用途としてノイズやアラ探しに有用ですし、オーディオマニア的にも「さすが新世代のPCオーディオは解像感があるな」なんて錯覚を呼び起こすので、なんとなくPCオーディオというジャンル自体が「音楽性より解像感」といったイメージが先行していました。かくいう私も、当時はカリカリサウンドの代名詞「RME Fireface 400」をオーディオ観賞用に使っていました。
Grace Design m901 |
そんな時代に登場したGrace Design のヘッドホンアンプ初号機「m901」は、RCA、XLRアナログ入力、光・同軸S/PDIF・AES/EBUデジタル入力(96kHz)と、当時考えうる全ての入力端子を装備していました(まだUSBオーディオが普及する前です)。しかも出力はフロントパネルのヘッドホン端子のみという、ヘッドホンアンプとして特化した商品でした。
この頃はまだ「PCオーディオ」が始まった頃で、現在のようなヘッドホンブームは到来していないので、高級ヘッドホンアンプというのは、本当にごく一部でしか話題にならなかったと思います。
この頃はまだ「PCオーディオ」が始まった頃で、現在のようなヘッドホンブームは到来していないので、高級ヘッドホンアンプというのは、本当にごく一部でしか話題にならなかったと思います。
このあたりの歴史については、Grace Designの国内代理店サイトに、m920発売時のとても詳しい開発者インタビュー記事が掲載されています。
(http://umbrella-company.jp/contents/grace-design-m920-interview/)
代理店というのは人様の製品を販売するのが業務なわけですから、他の輸入代理店も、ただ製品スペックを掲載して売り捌くだけではなく、これくらい突っ込んだインタビューや製品紹介を行って、メーカーの魅力をしっかりと伝えてもらいたいです。
m902でUSB DACの基本形を確立したGrace Designですが、発売から数年後にUSBオーディオで一世を風靡した「アシンクロナス転送・USBクラス2(192kHz対応)」といった新技術を搭載したのが、m903です。
m903
今回紹介する「m903」は、公式には「m903 レファレンス・ヘッドホンアンプ/DAC」という名称なので、ヘッドホンアンプは単なるフロントパネルのオマケではなく、それがメインの設計です。m903 |
2010年発売当時の定価が24万円、現在でも新品は20万円、中古でも10~12万円程度で売買されています。ちなみに最新モデルm920は、現在25万円で販売されています。
私自身はm903を2011年に購入したのですが、今回手放すことになって当時の領収書を見たら、まだ保証期間中だったので驚きました。といっても、これまでほぼ毎日使っていて一度もトラブルに遭遇していないので、保証なんて考えたことも無かったです。
トレンド重視の家庭用オーディオ機器と違って、このGrace Designのような少量生産で信頼性重視の商品のほうが価値の陳腐化は緩やかで、値崩れが少ないです。
フロントパネル操作
フロントパネルには電源ボタンと入力切り替え用のノブがあるだけで、それ以外の機能はボリュームノブを兼ねているロータリーエンコーダで操作します。一見複雑そうで、二つのノブしか無いシンプルなフロントパネル |
ボリュームは画面上に0~99までの数字で表示されますが、実は0.5も小数点として表されるので、200ステップのかなり細かいボリューム調整ができます。例えばボリューム「20.5」は、「20.」と表示されます。ボリュームノブをグリグリと上げていくと、「19 → 19. → 20 → 20. → 21」といった感じに上昇していきます。
このロータリーエンコーダを押し込むとスイッチになっており、LEDがグリーンの場合はヘッドホン出力のボリューム、押すとオレンジに変わり、ライン出力のボリューム、というふうにそれぞれ個別に調整できます。
また、エンコーダを数秒間長押しすると設定メニューに切り替わり、驚くほど幅広い機能設定ができます。
リストアップすると:
- 左右バランス調整
- 電源投入時のボリューム初期値
- ヘッドホン・ライン出力切り替え禁止(アクシデント防止)
- USBクラス1・クラス2切り替え
- リモコンON/OFF
- 無操作時のフロントパネル自動消灯
- ヘッドホン・RCA・バランス出力の音量オフセット
- モノラルモードON/OFF
- クロスフィードON/OFF
- ヘッドホン・ライン出力ボリューム同期・個別操作切り替え
- ヘッドホン・ライン出力モード切替時の相互ミュート
というふうに、考えうるほとんどの便利機能が搭載されています。たった二桁のデジタル表示なので、パッと見ただけでこれらの機能を把握するのは困難ですが、慣れれば覚えやすいですし、PDFマニュアルもダウンロードできます。
設定メニューでクロスフィードONにすると、X-FeedのLEDが点灯します |
ヘッドホン使用時には頻繁に使うであろうクロスフィードON/OFFがメニューに埋もれているのはちょっと面倒ですが、リモコンがあればボタン一発で切り替えできます。
唯一戸惑ったのは、本体の電源を長い間オフにしていると、USBクラス1・2切り替えの設定を忘れてしまい、初期値のクラス1に戻ってしまうため、USB DACとして使用時にハイレゾ再生が出来なくて焦る、ということが何度かありました。知っていれば、設定メニューでクラス2へ切り替えれば良いだけです。
リモコン操作
m903はリモコン操作ができるというのも、購入する決め手になりました。ボリューム操作以外では、出力端子選択、左右バランス、クロスフィードON/OFFはリモコンで操作できます。なぜか、ミュート機能だけは本体ではできず、リモコンでのみ使える機能です。
入力端子切り替えは、本体の物理ノブでカチカチと合わせるタイプなので、リモコンで切り替えることは不可能です。
いまいち高級なのかよくわからない、純正リモコン |
残念ながら純正リモコンは本体に付属しておらず、別売になっています。
実は、私がm903を購入した当時はまだ純正リモコンが発売されておらず、値段もけっこう高価らしい(2万円くらい?)ということで、結局買いそびれてしまいました。
代用品として使っている、Harmonyリモコン |
当時調べた結果、東芝のテレビと同じリモコンコードだということだったので、いわゆる汎用プログラムリモコンを購入して、それを使っています。LogicoolのHarmonyというやつですが、他の汎用リモコンでもコードを色々試せば大丈夫だと思います。
純正リモコンは使ったことが無いのでなんともいえませんが、Logicoolのリモコン操作では問題がいくつかありました。
ボリューム操作は、私のリモコンでは、ボリュームボタンをチョイ押ししても大きく変化してしまうため、ボリューム表示の最小ステップ(0.5)での上下が不可能でした。大体2~3ステップくらい一気に動いてしまいます。これは別のメーカーの汎用リモコンを使えば改善するのかもしれません。
もう一つ困ったのは、実は同じ部屋にあるテレビが東芝製なので、同じリモコンコードで反応してしまいます。たしかm903の入力切替とテレビの入力切替コマンドが一緒でした。
DAC
m903のDACは、バーブラウンのPCM1798をごく一般的なレイアウトで搭載しています。DACと後続する回路はとても綺麗に仕上げてあります |
192kHz 24bitに対応しているため、現在のハイレゾ音源を楽しむには十分に活用できます。残念ながら時代的にDSDのネイティブ再生などには対応していません。
あえて最高グレードのチップ「PCM1792 (1794)」を搭載していませんが、後続するアンプの性能を考えると、PCM1798のスペックで十分だという判断でしょう。PCM1798のほうが公称ダイナミックレンジが若干悪く(127 vs. 123dB)、電流出力も弱いですが、その後の強力なアナログ回路で補っています。
I/VはTHAT1570、フィルタにOPA1612と、当時最新スペックのオペアンプを採用しています。表面実装のレイアウトも非常に綺麗で芸術的です。
m903のDAC設計でユニークな点は、S/PDIF入力に二段階のPLLロックを応用した低ジッタ化回路が搭載されていることです。S/PDIF入力ソースのクロック周波数が許容範囲であれば、フロントパネルのS−LOCKランプが点灯して、水晶ベースの高精度PLLに切り替わります。
USB入力の場合はアシンクロナス(非同期)通信なので、送られてきたデータには必然的にこの高精度クロックが使われることになります。
USB入力には一般的なThesycon Streamlengthチップ基板を使っていますので、Windowsではドライバをダウンロードする必要があります。m903の設定メニューでUSB クラス1を選択すればドライバ不要で使用できますが、96kHz以下に限定されます。
入力選択ノブと、サンプルレート表示がとてもわかりやすいです |
S/PDIF、USBともに、サンプルレートに合わせてLEDが点灯するため、ちゃんとハイレゾPCMで送られているか確認できるのは便利です。
マイクロUSBではなく、ミニUSB端子です |
ちなみに、一つ注意が必要なのは、ちょっと古い設計なので、USB入力が「ミニUSB」端子だということです。最近はめっきり見なくなった「ミニUSB」ですが、当時はデジカメなどでよく使われていました。アンドロイドなどで使われている「マイクロUSB」端子だと思って誤解していると接続出来なくて泣くことになります。ちなみに最新モデルのm920も「ミニUSB」らしいです。
こんなのを使っていましたが、あまり良くなかったです |
オーディオマニア的には高級USBケーブルなんかを使ってみたいものですが、ミニUSBというのは良い物がなかなか手に入りません。私が持っているものでは、Wireworldのきしめんタイプのやつがありますが、実際に使ってみたら質感がチープでオススメできません。以前このケーブルのミニUSB端子側がボキッと折れてしまい、返品交換した覚えがあります。
入出力端子
アナログライン入出力はバランス・アンバランスの両方があるので、幅広い用途に使えます。リアパネルはデジタル、アナログともに充実しています |
例えば私の場合はRCA入力にターンテーブルのフォノアンプ、バランス入力にDACやSACDプレイヤー、そしてバランス出力にスピーカー用のパワーアンプを接続しています。
あと、たとえば角形TOSLINK光デジタルはテレビやゲーム機と接続したりとか、これ一台で無数の機器のコントロールセンター的に活用できるのは本当に重宝します。
デジタル入力は同軸・光S/PDIF以外にAES/EBUも付いているので、部屋の反対側から長距離ケーブルで業務用CDプレイヤーを接続しています。端子がこれだけ豊富だと、使っているうちに色々な遊び方が思いつくのは楽しいです。
唯一注意点として思い当たるのは、バランスライン出力が3ピンXLR端子ではなく、6.35mmTRS端子だということです。そのため、家庭用プリアンプとして使うには、TRSからXLRへの変換が必要です。LR端子間がギリギリなので、アダプタは入らないので注意してください。私はパワーアンプ用に、6.35mmTRS → XLRのケーブルを作っておきました。
バランスLINE OUTはTRSなので、XLRには変換ケーブルが必要です |
アナログライン出力は、出力レベル固定機能は無いのですが、ボリュームノブを最大(99)にすると、出力電圧が2.2Vrmsになるので、ごく一般的なライン出力として使えます。
2.2Vrmsは+9dBUで、バランスライン出力も差動9.75Vrms(+22dBU)なので、ちゃんとスペックどおりです。
よくあるヘッドホンとRCA端子が兼用になっているチープな回路とは違って、専用のライン出力ドライバが搭載されているため、プリアンプとして真っ当な設計なのが嬉しいですね。
ヘッドホン出力
m903が他社製のヘッドホンアンプと異なるユニークな点は、そのヘッドホンアンプのデザインにあります。多くのヘッドホンアンプでは、価格を押さえた商品ではオペアンプ増幅、さらに高級な商品では、トランジスタや真空管を組み合わせたディスクリート構成、というのが主流です。
オペアンプというのは、一般的に電圧増幅は無尽蔵に出来ても、コンパクトなサイズが災いして電流量がショボいので(あんまり流すとオーバーヒートで死んでしまうため)、オペアンプだけでは、低能率ヘッドホンを駆動するために十分な電流が流せなかったりします。
世間一般の高級ヘッドホンアンプで一番多いのは、まずオペアンプで電圧増幅してから、その後にトランジスタで電流バッファを追加するという構成です。タンクに大量の水を確保してから、ポンプで一気に流す感じですね。
この電流増幅部分で一気にヘッドホンのドライバを駆動させるエネルギーを与えるため、ここの出来の良し悪しで、駆動力、ノイズ、安定性、周波数特性など、音質にかなりの影響を及ぼします。
ヘッドホンアンプ回路は、写真中央の大きなチップが担当しています |
m903のヘッドホンアンプ中核には、アナログ・デバイセズ社の高速・高電流アンプAD815を採用しています。
AD815というのは、俗にいうチップアンプというやつで、オペアンプの巨大化したような感じです。オペアンプみたいな増幅回路なのに、大電流を流せるように大型化した、一枚完結型のチップです。
AD815と一般的なオペアンプの比較 |
ちなみにこのAD815はオーディオ用ではなく、たとえばADSLモデムやケーブルテレビなどのMHz周波数で信号を伝送するためのラインドライバーといって、瞬間的に大電流を送るために特化したチップです。たとえばオーディオ用オペアンプとくらべて10倍くらいの電流量とスルーレートを発揮できます。
では、なぜみんながこのようなチップアンプを使っていないのかというと、さすがに高出力チップなだけあって、歪み率や素の特性はあまり良くないので、電源などの周辺回路をきっちりと設計しないと、パワフルなだけが取り柄の大味なアンプになってしまいます。
たとえばライバルのBenchmark DAC1は、もっとシンプルに、「高電流ヘッドホンバッファ LME49600」というチップを搭載しています。
選択するアンプ構成によって周辺回路もおおよそ決まってしまうため、トータルな音質を決定づける重要な要素です。
非常に高品質で合理的な回路設計です |
m903の設計を見ると、大型トロイダルトランスと各セクションごとに独立した電圧レギュレータ、パナソニックの低ESRコンデンサ、各出入力ごとに独立したアイソレーションなど、なんとなく、あえてピュアオーディオ的な慣例を白紙に戻して、「今現在で最も合理的な高性能設計をしたらこうなるんだ」という、明確なポリシーが感じられます。
出力
m903のヘッドホン出力を測ってみました。1kHzで0dBFSのデジタル信号をS/PDIFに入力した時のデータです。さすが「レファレンス・ヘッドホンアンプ」と称するだけあって、完璧なまでの高出力グラフです。実線がボリュームノブ最大時(99)で、破線はクリッピング(音割れ)しないところまでボリュームを下げた状態です。
出力電圧の比較 |
ヘッドホンのインピーダンスが10Ω付近までフラットな定電圧駆動を実現できており、3Ωでもクリーンな5Vp-p出力が得られるというのは素晴らしいです。実際そこまでの高出力が必要なケースは皆無だと思います。
比較対象にChord HugoとAK240を記載してみました。高電圧(低能率ヘッドホン)と高電流(マルチBA型IEMなど)のどちらのケースにおいてもm903の優位性が確認できます。
ちなみに、背面のバランス出力端子をバランスヘッドホン駆動に使えないのか?と考える人もいるかもしれませんが、実際測ってみたところ、スペック通り95Ωの高インピーダンス出力なので、ヘッドホン駆動には適していません。
バランス出力端子はヘッドホンには適していません |
ヘッドホンを接続すれば一応音量を出すだけの十分な電圧はありますが、出力インピーダンスが高く、瞬間的な電流のダンピングが弱いため、ヘッドホンのインピーダンスによって、シャリシャリ、モコモコなど音色が大きく影響されます。ようするに、基本的にパワーアンプやアクティブモニタースピーカーなどに接続することを想定しています。
音質について
m903のサウンドを一言で表すと、「柔らかく心地よい」という印象です。これは、ヘッドホン出力とライン出力の両方に共通するキャラクターだと思いました。出力グラフのとおり、たとえ能率の悪い大型ヘッドホンでも十分な音量で駆動できます。HIFIMANなどの平面駆動型ヘッドホンを使うと、ボリューム位置が80(最高99)くらいになって多少心配になりますが、ちゃんと頭打ちせずにグイグイと駆動してくれます。
アンプ回路特有の確実な電流ドライブで、大音量でも音割れやクリッピングを起こさず、優しく飽和していく感じは、やはりチープなヘッドホンアンプとは一線を画する丁寧さを感じます。
プロ用スタジオ機器っぽいルックスからは、もっとハキハキした、メリハリの強いサウンドを想像するのですが、実際聴いてみると、過度な刺激を抑えた、中低域の太い存在感を重視した音色です。ベテランオーディオマニアならわかると思いますが、例えるならCDの解像感でも、アナログレコードの色艶でもなく、なんとなくテープ録音のような飾らない堅実さを感じさせます。
高域や超低域はあまり派手に発散せず、落ち着いた雰囲気なので、たとえばGradoやゼンハイザーHD800などの開放型ヘッドホンに、土台と肉付けを与えるために効果的です。もしくは、MDR-Z1000やDT770など、硬質すぎるスタジオモニターに柔らかさを与えてくれます。
逆に、低音が強めのヘッドホンには、もっとクリーンで繊細なサウンドのヘッドホンアンプのほうがマッチすると思います。
性能面だけで言うと、スピード感や音のキレも目立たず、なんてことのないヘッドホンアンプなのですが、長時間にわたってリスニング、たとえばアルバム一枚を最後まで通して聴いていると、このような柔らかなサウンドが好ましくなってきます。そして、ヘッドホンそのものの特性も自然と体感できるようになります。
オーディオ比較試聴でありがちな、30秒のサンプル音源をとっかえひっかえ聴くような実験ではなく、もっと長い時間音楽をゆったりと楽しむことで、「あ、このヘッドホンはピアノの響きが綺麗だな」とか、「ホールの距離感がよく出てるな」なんて噛みしめて味わえます。
もっとシビアな高解像アンプになると、たとえ第一印象は良くても、10分も聴いていると疲れてしまいます。
落ち着いたサウンドというと、たとえばChord Mojoなんかと似てるかな、なんて思ったりもするのですが、実際に比較してみると結構違います。Mojoのほうが中域の質感をフロントにグッと出すような演出で、ボーカルなんかが異常なほど明朗で綺麗に引き出されます。一方m903は、全体的にみっちりとサウンドで埋め尽くすような感じで、あえて特定の要素をフロントに引き出すような演出をしない、スポーツカーよりも大型トラックのような、飾らないスケールの大きさが印象的です。
どちらかというと、たとえばデンオンの上位CDプレイヤーや、Astell & Kern AK240とかと似たようなスタイルのように思えます。「派手さは無くても退屈にならない」というのが、ちゃんと試聴を繰り返した上でたどり着ける、音作りの結果なのでしょう。高級オーディオというのは、こういった開発努力に対して相応の値段を支払っているのだと思います。
個々の音像が細々と離ればなれにならず、主音声分が太く構えているため、ステレオイメージはそこそこ、ハリ・ツヤも解像感もまあまあ、と、なんの取り柄も無いような表現しかできないのですが、総合的な音楽性の高さが不思議な一体感を演出してくれます。しいて言えば、もう少し色艶を濃くするか、キラキラ感を増してくれたほうが、一般受けしやすいサウンドになると思うのですが、その辺はメーカー的な音作りのポリシーがあるのでしょう。
USB入力
ここまではS/PDIF入力で聴いた時の印象だったのですが、パソコンからのUSB接続では、ちょっと好みに合わないサウンドでした。そのため、USB DACとしてはあまりオススメできません。もちろん、パソコン接続上の不具合とかは一切ありませんので、音質を気に入る人もいるかもしれません。何故か理由はわからないのですが、USB DACとして使うと、S/PDIFよりも暑苦しく、濁ったようなサウンドになります。ほんの僅かな差なのですが、それが気になってしまい、どうにも満足できません。度々試聴するごとに、数十分で「やはりダメだ」と思い立って、あえてパソコンのUSBからm2tech HiFaceなどのS/PDIF変換アダプタを通して、m903をS/PDIFで使ったりします。
この違いは何なんでしょうね。どうも高音域が詰まったような、音の伸びや空間的余裕が失われてしまいます。S/PDIFではそんな印象は皆無です。もちろん、USBクラス1とクラス2の両方を試してみたところ、そのどちらよりもS/PDIFを選んでしまいます。S/PDIFであれば、同軸、光、AES/EBUのどれでも、さほど気にせずに使えました。
ちなみに後継機m920ではUSB DAC部分がかなり高性能化しており、私自身がピンポイントで問題視していた部分が改善されてとても嬉しいです。もしS/PDIFで使うならm903を格安で買うのも良いと思いますが、USB DACとしても末永く使うのであれば、m920を選んだほうが良いです。
アナログ入力
私自身は、m903をライン入力でアナログヘッドホンアンプとして使うことが多かったです。そのため、内蔵DACモジュールについてはどうでもよいというか、実はあまり使っていません。USB DACは色々と借りたり買い換えたりなど、出入りが激しいので、それらを接続して楽しむための一種のコントロールセンターとしての役割をm903が果たしていました。まさに、「レファレンス・ヘッドホンアンプ」ですね。
メインで使っているDACはApogee Rosetta 200という、古いS/PDIF DACで、そこからバランス出力でm903に入れていました。また、同時にRCA端子でChord MojoやiFi micro iDSDなどの「今が旬な」DACを接続することで、自分にとっての普遍的なレファレンスDACと、最新ガジェット系DACの比較試聴というのが容易に出来る環境です。もちろんApogeeが常に最高音質だというわけではなく、各DACごとに、それぞれの魅力があるのは当然ですが、やはりなにか一つ基準点というべきものがあるのは重要です。
クロスフィード
m903のセールスポイントの一つに、左右のサウンドを微妙にミックスする「クロスフィード」機能があります。ヘッドホンでスピーカー的体験を演出する効果ですね。リモコンがあれば一発でON/OFFが切り替えられます。クロスフィードONの状態ではフロントパネルに白いLEDが点灯するため、わかりやすいです。
このクロスフィードは、他社製アンプのクロスフィードと比べると効き目が弱いです。多くの録音では実際にクロスフィードがかかっているのかどうか気がつかない程度です。たとえばiFi micro iDSDに搭載されているやつは、もっと高域がシャリつく感じですし、Chord Hugoのものは三段階に調整できるため、かなり強烈な効き具合にもできます。
m903のクロスフィードを使っていて感じるのは、左右のステレオ配置がとんでもなく極端な音源では十分な効き目が感じられますが、すでにステレオバランスが良好な音源では、あえて効果が感じられないくらいのレベルです。つまり、あくまで劣悪な録音のための補正エフェクトであって、音質を劣化するようなギミックではありません。
ちなみに、m920では異なるデザインのクロスフィードを搭載したということで、試聴してみたところ、効き目はもうちょっとスピーカーっぽい前方定位を実現するような、空間的エフェクトのように感じました。そのほうが、効果としては楽しいです。
m9XX
余談になりますが、2015年にGrace Design社は新たなヘッドホンアンプ「m9XX」を発売しました。m903やm920のような多機能複合機ではなく、価格を抑えたシンプルなDAC+ヘッドホンアンプです。Grace Design m9XX |
「9XX」という名前から察したマニアの人も多いと思いますが、米国オンラインショップMassdropから、$499(約56,000円)で限定販売の商品です。
私自身はこれまでMassdropで「AKG K7XX」や「Fostex TH-X00」などの独占販売モデルを率先して購入してきたため、Grace Design m9XXについても絶対買うだろうと思っていた友人達から「え?買わないの?」なんて驚かれたりもしました。
背面はシンプルで、Massdropのロゴがあります |
このm9XXはGrace Designのサウンドをコンパクトで低価格なパッケージに凝縮したモデルなので、すでにm903を持っている自分にとっては、あまり購入意欲がわきませんでした。低価格なりに、m903などと比較すると外装がチープです。
実は現物を触ったことは無いので、もしかしたら超高音質かもしれません。ちなみに現行モデルm920がDACにESS 9018を採用しているのに、m9XXは旭化成のAKM4490を搭載しているのは面白いです。アンプについてはGrace Designの御家芸があるので、これまでどおり素晴らしい音色だと思います。
Grace Designのようなコアなスタジオ機器メーカーも、近年のヘッドホンブームに乗って、さらに幅広い商品展開をして欲しいです。願わくば、このままコロラド本社製造で、ユーザビリティと音質を両立させた、高品質を貫いて欲しいです。
まとめ
m903はデスクトップ型DAC+ヘッドホンアンプとして、トータルパッケージとしての完成度が異常なまでに高い、素晴らしい製品です。音質面でも、他社のスタジオ機器とくらべて暖かみのある、じっくりと聴きこませるようなサウンドチューニングが魅力的です。とくにアタックが硬かったり、シャリシャリするようなヘッドホンと合わせるとバランスよく鳴ってくれます。たとえばソニーMDR-Z1000やオーディオテクニカATH-A、ATH-ADシリーズ、ベイヤーダイナミックDT770など、繊細な空間が味わえるけどちょっと聴き疲れする、中低域が乏しい、といったヘッドホンにマッチすると思います。
個人的には、内蔵DACの性能よりも、アナログアンプとしての用途で重宝していました。S/PDIF接続では素直正直なサウンドで悪くないのですが、USB接続は若干濁り気味な印象です。
今回、長年連れ添ってきたm903を手放すことにした理由は2つあります。まず、アナログヘッドホンアンプ単体として使うことが多かったため、DAC機能が無駄になっているのが勿体無いと思ったこと、そして、最近バランス駆動のヘッドホンが増えてきたので、バランス駆動対応のアンプが欲しいと思ったからです。
実際、一年以上じっくりと後継機選びで入念に試聴を繰り返した結果、ようやく満足のいくアンプが見つかったため、m903を手放す決心がつきました。次回はそれについて紹介しようと思います。
逆に言うと、それだけm903を退けるようなヘッドホンアンプを見つけるのは大変だったということです。
DAC部分についても、私が言うほどそこまで悪いわけではないのですが、m903の後継機として登場したm920ではこのDAC部分が強化され、DSD対応のESS9018を搭載、さらにUSBコントローラも既成品ではなく、Grace Design自社製インターフェースだということなので、まさに向かうところ敵無しといったところです。もしかすると、Grace Design社自体も、m903のDAC部分には弱さを感じていたのかもしれません。
ではなぜ私自身は後継機のm920を買わなかったのかというと、単純に、他のメーカーに浮気してみたかった、ということと、m920のヘッドホンアンプ回路は基本的にm903と同じなので、DAC部分のためだけに高価な買い替えをするのも勿体無いなと思ったからです。実際m903には外部DACを常時使っていたわけですし。また、ヘッドホンのバランス接続が無いというのも痛手でした。
最近ではヘッドホンブームのおかげで、OPPO HA-1やFostex HP-A8、TEAC UD-503、ゼンハイザーHDVD800など、ヘッドホンに特化したUSB DACアンプ複合機が増えてきています。昔のように、変なスタジオ機器を買わなくても、10万円クラスで、多機能・高音質な製品が手に入ります。
ではGrace Designの魅力が薄れたのかというと、全くその逆で、それらの普及クラス複合機を使うたびに、Grace Design特有の質感や操作性、そして優れた音楽観といった優位性を再確認できます。一般的な複合機が、「とりあえず多機能で高音質だから買っておこう」といった妥協で購入するものであるならば、Grace Designは、「お金をためて、いつかあれを手に入れたいな」と思わせるだけの魅力があります。