2017年に発売したモデルなのでかなり時間が経ってしまいましたが、今回ようやく試聴機を使う機会ができたので、じっくり聴いてみました。
Pro iESL |
このPro iESLはかなりユニークな製品で、簡単に言うと「一般的なヘッドホンアンプで静電型ヘッドホンを鳴らすための装置」です。つまりヘッドホンアンプではありません。iFi Pro iCANと合わせて使う事を想定していますが、他のヘッドホンアンプと接続することも可能です。
一番高価な約40万円のPro iDSDは、豊富な入出力、複数のアップスケーリングモード、トランジスター&真空管回路切替など、ありとあらゆる機能を搭載しており、これさえあれば相性問題などは気にせず好みのサウンドが見つかる贅沢なユニットです。
ちなみに上の写真のPro iDSDはバランスヘッドホン出力に2.5mmを採用していますが、最近になって4.4mmに仕様変更されたようです。
Pro iDSD単体でも完結したDACヘッドホンアンプとして機能しますし、ヘッドホン駆動性能も優れているのですが、さらにアナログヘッドホンアンプ(約30万円)のPro iCANを足すことで、より強力なパワーと、トランジスター&真空管バッファー切り替え、低音ブースト、クロスフィードなど、自分好みのサウンドを追求することができます。
Pro iDSDのDAC部分を取り除いたのがPro iCANというわけではなく、両者のサウンドは方向性がかなり違います。
ボリュームノブだけのシンプルなアンプとは対極にあるような、ボタンやスイッチが盛りだくさんのマニアックな製品ですが、それがiFi Audioの魅力でもあり、好評を得ています。高価なので私は所有していませんが、ポータブルタイプのmicro iDSD BL・nano iDSD BLなどは持っており、こちらも非常に優れた製品で、日々愛用しています。
静電ヘッドホンというとSTAX社が有名ですが、幸いな事に、他社の静電ヘッドホンもSTAXと同じタイプの5pinコネクターを採用しているものが多いため、それらもPro iESLで鳴らす事ができます。
説明書にはSennheiser HE-60・HE-90、King Sound、KOSS ESP-950などが書いてありますが、他にもSTAXアンプ互換タイプの静電ヘッドホンはいくつか思い浮かびます。
まず基本的な話になりますが、静電型ヘッドホンというのは、一般的なヘッドホンアンプでは鳴らす事はできません。
一般的なイヤホン・ヘッドホンは、グラウンド(アース)を0V基準に、最大±10Vくらいの範囲で上下に揺れる音楽波形信号を流すことで音が鳴ります(イヤホンの場合±0.1Vとかで十分です)。ヘッドホンのインピーダンスは10~100Ωくらいが一般的なので、そこそこ電流が流れる、いわゆる「低電圧・高電流」駆動です。
一方、静電ヘッドホンでは、音楽信号とは別にもう一本ケーブルがあり、それでヘッドホンにDC (STAXだと580V)基準電圧を送ります。これで振動板を帯電させた状態が基準になり、そこに10-1000Vくらいの音楽信号を差動(バランス)で送って動かします。静電ヘッドホンのインピーダンスは100,000Ωくらいが一般的なので、電流はほとんど流れないため「高電圧・低電流」駆動です。
ちなみに600Vを超えると高圧装置扱いになり、回路やケーブルなどPSE(電気用品安全法)の許認可が変わってしまうので、ギリギリのところが580Vです。
大昔は真空管やブラウン管など数百ボルトを扱うのが当たり前だったので、静電型ヘッドホンと似たような高電圧回路を扱う家電が多かったのですが、最近はトランジスター回路の小型化に伴い、スマホUSBバッテリーに代表されるような低電圧・大電流が主流になってきたので、小さなポータブルアンプで低インピーダンスヘッドホンを鳴らす回路は作りやすくなりましたが、高電圧回路は需要が少ないため設計できる人が少なくなってしまいました。
逆に言うと、静電型ヘッドホンの自社開発というのはヘッドホンメーカーにおける技術開発力の見せ所なので、ゼンハイザー、HIFIMAN、MrSpeakersなど、多くのハイエンドヘッドホンメーカーが最上位機種に静電型ヘッドホンを置いています。
Pro iESLの話に戻りますが、この製品は主に二つの事をやっています。まず、静電ヘッドホンに必要なDCバイアス電圧を作っています。
STAXの場合DC580Vですが、典型的なSTAXアンプではトランスと電圧増倍回路の組み合わせで作っています。コンセントAC100Vにそのまま6倍掛けて作るものや、トランスでまず300V程度に昇圧してから2倍掛けるものなど色々です。
Pro iESLも原理的には同じなのですが、高性能な大容量フィルムコンデンサーを大量に投入することで、ほぼ自然放電しないバッテリーとして機能するため、断続的な充電を行うような設計にしたそうです。一旦580Vをコンデンサーに溜め込んだら、あとはヘッドホンが消費する微々たる量を補うために、必要に応じて勝手に充電されます。説明書によると、STAXヘッドホンを鳴らす場合、約30秒に一度、数マイクロ秒だけ充電する程度だそうです。つまりリスニング中99.999%の時間はバッテリー駆動で、コンセント電源などから分離された状態なので、ノイズ混入などを根本的に解消するというアイデアです。
Pro iESLが行っているもう一つの機能は、ヘッドホンアンプから送られてきた音楽信号を、「低電圧・高電流」から「高電圧・低電流」に変換する事です。
説明書には20Vの入力信号を640Vに変換と書いてありますので、だいたいそれくらいの昇圧です。
そのためにアンプではなくトランスで変換しています。オーディオ用トランスというと、MCレコード針用昇圧トランスや、真空管アンプ用の出力トランスが有名ですが、原理的には同じ事です。Pro iESLでは汎用品ではなく鉄コアとパーマロイのブレンドをヘッドホン駆動に最適なバランスでカスタマイズしたそうです。
デジタル世代でトランスを見る機会が少なくなったせいでしょうか、トランス変換というと生理的に嫌だというオーディオマニアも結構多いのですが、この場合、トランスでなければインピーダンス変換アンプを入れる事になってしまうので、Pro iESL本来の役割である「自分の好みのヘッドホンアンプで、静電ヘッドホンを駆動する」という意義としては、トランスが最善の回答だと思います。
古典的なSTAXアンプの場合、トランスではなく真空管かトランジスターのBTL駆動が主流なので、そのあたりが音質の違いを生むだろうと想像します。
それぞれにラックの部品を同梱して、三台揃えればラックが完成するとかだと購入意欲が増すと思うので、その点はちょっと残念です。
今回は、DAPからUSBケーブルでPro iDSD → XLR固定ライン出力でPro iCAN → ESL LinkケーブルでPro iESLという構成で接続しました。XLRケーブルはAudioquestの黒いやつです。
これがPro iESL付属のESL Linkケーブルです。端子はHDMIを流用していますが、互換性は一切ありません。Pro iCANのバランスヘッドホン出力と電源を一本のケーブルにまとめてiESLに送ってくれます。
つまりこのケーブルを使えばPro iESL側のACアダプターは不要になり、Pro iCANの電源を入れると同時にPro iESLの電源も入ります。
ヘッドホンアンプからの強力なアナログパワーを伝達していますし、ピンアサインも不明なので、市販のHDMIケーブルを流用するとかは止めた方が良いと思います。
背面には三種類の入力端子があります。Pro iCANをすでに持っているなら、ESL Linkケーブルを接続するだけなので一番手軽です。
ESL Linkを使わない場合は、付属のACアダプターが必要です。端子形状がPro iDSD・Pro iCANと同じですが、それらがDC15Vだったのに対してPro iESLはDC5~9Vと書いてあるので、混同しないよう注意が必要です。
Pro iCAN以外のヘッドホンアンプを繋げる場合は、バランスヘッドホン出力から4 pin XLRでPro iESLに接続します。つまりXLR→XLR延長ケーブルのような物が必要です。
繰り返しますが、Pro iESLはヘッドホンアンプではないので、ラインレベルのXLR信号を入力してもダメです。ヘッドホンアンプで増幅された強力な信号をPro iESLに送ります。ボリューム調整もヘッドホンアンプのボリュームノブを使います。
説明書によると、十分な音量を得るためには、ヘッドホンアンプは64Ω負荷で10Vrms (28Vpp) 程度出せるものが必要だそうです。つまり64Ω定格で1.5W程度ということになり、これは据え置き型アンプでも結構厳しいスペックです。
もちろんリスニング音量には個人差がありますが、DAPではほぼ無理でしょう。10Vrmsというと、Pro iCANなら余裕ですが、最低でもSennheiser HDV820、AK L1000、Questyle CMA400i程度が目安だと思います。説明書にはアンバランス入力は可能とは書いてありませんが、どのみちアンバランスで10Vrms以上出せるアンプはそうそう無いと思います。
スピーカーアンプを繋げるためのスピーカー端子もあり、そっちを使う場合、説明書によると最大100W/8Ωのアンプを推奨しています。10W/8Ω程度のアンプでは厳しいそうです。
100W/8Ω(つまり28Vrms)を超えるアンプだと、Pro iESLの入力定格を超えてしまい、静電ヘッドホンも大音量に耐えきれなく壊れてしまう可能性があるので、限度が重要です。そもそもSTAXヘッドホンはSTAX製アンプ(ドライバーユニット)で鳴らす前提で設計してあるので、想定外の扱いで壊してしまっても自己責任です。
ちなみにスピーカーOUT端子もありますが、入力セレクターでSpeakersを選んだ場合ミュートされ、それ以外だとそのままスルーで出るそうです。ワンタッチでスピーカーと静電ヘッドホンを切り替えられるのは気が利いていますね。
フロントパネル右端には入力セレクターがあります。Pro iCANと連動する事を想定してか、他の二台のような電源ボタンは無く、セレクターが電源OFFを兼ねています。
AC Termination・Bias・Impedanceノブは音質に影響を与えるので、それらについては後述します。
ヘッドホン出力端子は静電ヘッドホン用が「Normal」と「Custom/Pro」の二系統、さらに4pin XLRヘッドホン端子もあります。
このへんは静電ヘッドホンを所有していないとわかりにくいのですが、「Normal」というのは6pin 230Vという古いタイプのSTAXヘッドホンのための端子です。「Custom/Pro」は5pin端子の現行STAXや、他多数の静電型ヘッドホンメーカー用です。
現行Staxヘッドホンを使う場合はCustom/Pro端子に接続して、Biasを580Vに合わせることになります。
4pin XLRヘッドホン出力は静電型ではなく一般的なヘッドホン用なのですが、単純にヘッドホンアンプからのパススルーというわけではなく、インピーダンス変換トランスを通っています。そのためヘッドホンアンプに直接接続した時とは音質や駆動力がかなり変わると想像します。
ちなみに一般ヘッドホン用といえど、内部の回路構成や保護回路がどうなっているか不明なので(トランスでしかもACアダプターで浮いているので)、ホット側だけとってアンバランスで鳴らすとかはやめた方が良いかもしれません。
ちなみにL700は最近登場したMK2になっても大きな違いは無いと思いましたが、それよりも下位モデルL500の方がMK2になってずいぶんL700に近づいたことに驚きました。
STAXをPRO端子に接続して、iESLフロントパネルのノブをいじってみました。
まず「AC Termination」というノブがありますが、これはいまいち効果がわかりにくいです。DCバイアス端子にACターミネーションを入れるかどうか、つまり音楽信号で振動板を駆動することで生じるバイアス電源への影響を逃がすかどうかという事だと想像します。
説明書によると3Dプレゼンテーションに影響を与えるらしいので、スピーカーの逆起電力みたいなものでしょうか。ターミネーションしないと一方のチャンネル駆動のエネルギーが反対側チャンネルバイアスを揺らして一種のクロスフィード的効果が起こるのかもしれません。(全然見当違いの事を言っているかもしれません)。なんにせよ、リスニング中に色々切り替えてみたところ、「なんかちょっと違うかな」というくらいで、そこまで大きな効果は感じられませんでした。ターミネーションONの方がダンプされて落ち着いた鳴り方のような気もします。
「Bias」ノブは500-640Vの範囲でバイアスを切り替える事ができます。現行STAXは580Vで、Pro iESL説明書によるとSennheiser Orpheusが500V、KOSS ESPが600Vなどと書いてあります。わからない場合はヘッドホンの説明書に書いてあるはずです。
厳密にピッタリのバイアス電圧でなくてもヘッドホンは鳴るので、リスニング中に切り替えて聴き比べてみる楽しみもありますが、メーカー推奨以上の電圧をかけてヘッドホンを壊してしまう可能性はあるので、そのへんは自己責任になります。ちなみに電圧を変えてから安定するまで時間がかかるので、カチャカチャ切り替えるのはダメだそうです。
こちらは音質が結構変わるようでした。STAX L700だと、バイアス電圧を下げすぎると音が緩くフォーカスが甘くなり、逆に強すぎると圧迫感がありコンプレッションされたような息苦しさを感じます。この場合、結局580Vがベストでした。
一番右の「Impedance」ノブは96・64・24・16Ωから選べます。これもいまいち動作が不明なのですが、単純に考えると、ヘッドホンアンプから見た昇圧トランスの一次巻線インピーダンスでしょうか。Pro iCANと接続する場合、私は64Ωが好みでした。96Ωは若干大人しく地味で、24、16Ωにすると音量が大きくなる反面、音が鮮烈でやかましく感じます。どれも悪く無いですが、単純に全部聴いてみて一番バランスがとれていたのが64Ωだったという感じです。
ヘッドホンアンプはメーカーごとに多様な特性を持っているので、一筋縄ではいきません。たとえば無負荷時のゲインが非常に高いアンプがある一方で、ゲイン上限は低いものの、低インピーダンスでもしっかり粘ってくれるアンプもあり、アンプごとに引き出せるパワーが最大になるポイントが異なります。
たとえば以前ブログで紹介した三つのアンプを並べたグラフです。上のLogグラフの右端1000ΩではCMA400iとKANN CUBEはどちらも30Vppを超える電圧を発揮していますが、L1000は34Ω以上では24V程度で頭打ちしているのがわかります。ボリュームノブを上げてもそれ以上は上がらないという事です。
100Ωまでをリニアにプロットしてみると、CMA400iとL1000が互角くらいに粘り強く、KANN CUBEは急激に降下しています。
つまりPro iESLの入力インピーダンスを96Ωに合わせたら、CMA400iでは約30Vpp、L1000は24Vpp、KANN CUBEは13Vppくらい得られます。さらにPro iESLのノブを64・24・16Ωと下げていくとどうなるかグラフを見れば想像できます。
Pro iESLの説明書で、ヘッドホンアンプは64Ωで10Vrms(28Vpp)程度必要だと書いてあった意味がわかると思います。もちろんiFi Audioの想定する最大リスニング音量の話なので、実際そこまで大音量が必要かは個人差があります。
グラフを見てわかる通り、Pro iESLの入力インピーダンスを上げたほうが負荷が軽くなるのでアンプから高い電圧を得られやすいのですが、しかし静電ヘッドホンに送られる電圧は一次巻線と二次巻線の比率なので、一次巻線インピーダンスを下げたほうが、トランスの昇圧比が高くなります。
もし入力インピーダンスを1000Ωとかにしたら、ヘッドホンアンプはほぼ無負荷なので最大電圧が得られますが、L1000のように早くから頭打ちしてしまうアンプでは逆効果ですし、今度は二次巻線側が高インピーダンスになりすぎて(ダンピングファクターが悪化して)静電ヘッドホンを駆動できなくなってしまいます。アンプが空回り状態で十分なパワーが引き出せないということです。
つまりPro iESLのImpedanceノブをどのインピーダンスに合わせるかは、アンプそれぞれのパワー特性によって最適解が異なるということです。
さきほどの電圧グラフをオームの法則でパワーに換算するとこうなりますが、L1000・CMA400iともに10~100Ωの間くらいで最大出力が得られるよう設計されていることがわかります。一般的なヘッドホンに合わせた設計と言えます。つまりPro iESLの16・24・64・96Ωという選択肢は妥当な範囲です。
とくにL1000はグラフのピークが34Ωにあり、しかもかなり急なので、Pro iESLのインピーダンスノブは24・64Ωのどちらにすべきか決めるのが難しいです。Pro iESLはアンプを搭載していないので、直接このパワーがトランスを通して静電ヘッドホンを駆動するパワーになっているという点が肝心です。
最大音量の問題だけなら良いのですが、アンプの歪み率など音質スペックの方も、メーカーごとに特定のインピーダンス負荷でベストになるよう設計していますから、必ずしも最大出力イコール最高音質とは限らないのがオーディオの面白いところです。さらに1kHz測定での最大出力が他の周波数でも同じとは限りません。
それはさておき、Pro iCANから64Ω・AC Terminationありという設定が自分なりのベストだったので、それでL700を聴いてみてT8000と比べてみました。
まず聴き始めてすぐに感じるのは、これは明らかにiFi Audioの音だということです。Pro iESLがそうさせているというよりは、Pro iDSD・Pro iCANのサウンドをそのまま正しく伝えることができているということでしょう。
ダイナミックレンジが広く、空間展開も広く、引き締まったシャープな鳴り方です。低音がスッキリした、かなり軽いサウンドだと思います。ハイレゾPCMやDSDなど音源による差や、フィルターモード設定効果など、音の違いが非常にわかりやすく、些細な変化でも正確に聴きとれます。
とくに空間表現が優秀で、演奏は遠すぎず近すぎず、音響空間は前方奥へ遠くまで拡散し、理想的なホール音場を描いてくれます。
続いてDACはPro iDSDのまま、T8000の方につないで聴いてみると、同じL700なのに、サウンドはまるで異なります。低音が重く、中域から下がグッと盛り上がったような暖かみのあるサウンドです。空間展開もPro iESLの時ほどは強調されておらず、主要楽器の音像をしっかり太く描いて、背景と分別するような傾向です。空間の深みよりも音色の深みといったところでしょうか。この方が圧倒的に聴きやすく、明らかにリッチでゴージャスな仕上がりの、聴き惚れる音色です。
これは最近のSTAXアンプに共通する魅力で、SRM-D10・D50などでも同様に「深みがあって聴きやすい」サウンドを実現しています。過去のSRM-353や007とは一味違います。
Pro iESLに戻ってみると、STAXらしい癖が消えて、HD800など開放ダイナミック型ヘッドホンに近い感覚になります。自分の好みとしてはT8000で聴く方が音色に魅力が感じられ、音に惹きつけられます。一方、遠くまで見通せる分析力は断然Pro iESLの方です。
Pro iESLのサウンドが軽すぎるのなら、Pro iDSD・Pro iCANには真空管モードがあるので、それならどうかと試してみました。
双方トランジスターから真空管に切り替えてみたところ、期待していたような効果は得られませんでした。鳴り方が変わるのは確かですが、太く重厚になるというよりは、中高域の質感がツルッと丸くデフォルメされるような感じです。こっちの方が聴きやすいかもしれませんが、情報が不明瞭になり解像感が劣るので、せっかくのSTAXとしてはもったいないと思い、トランジスターモードに戻しました。ダイナミック型ヘッドホンを鳴らす時は、真空管モードを使うことでアタックの金属っぽい刺さりを中和してくれるので好ましいのですが、STAXだとそもそも刺さりが無いので、かえって逆効果なのかもしれません。
やはりT8000とPro iESLの違いというのは、単純に好みの差です。私のように、STAXというのはこうあるべき、こういう音で聴きたい、という先入観と期待を持っている人はT8000の方が良いと思いますし、一方でHD800などダイナミック型の延長線上にある音を期待している人は、Pro iCAN+Pro iESLの方が満足度が高いと思います。
私は色々なヘッドホンでそれぞれの個性を楽しみたいので、あえてSTAXらしさを強調したいのですが、たったひとつのヘッドホンで全てをこなしたいというのならPro iESLのポテンシャルの高さも侮れません。
せっかくなのでSR-009Sも鳴らしてみました。STAXの最上級ヘッドホンです。
不思議なことに、このヘッドホンはPro iESLでずいぶん上手く鳴らせました。L700では断然T8000の方が良いと思えたのですが、こっちは両方に魅力を感じて、そこまで目立った違いがありません。
単純にL700よりもSR-009Sの方が上位モデルということを踏まえると、T8000はL700の弱点を上手にカバーしてくれるような音作りで、Pro iESLはそれを包み隠さず出してしまうということでしょうか。SR-009Sはそのような弱点が無いので、どちらのアンプでも良好に聴こえる、ということかもしれません。
Mr Speakers VoceもSTAXコネクターを採用しているので、Pro iESLで問題なく鳴らせます。
このヘッドホンは以前STAX SRM-007tAで試聴した時はちょっと個性的すぎる印象だったのですが、Pro iESLで鳴らした方が良い結果が得られました。個人的にはT8000よりもPro iESLで鳴らす方が好みです。
Pro iESLの硬めの性格がVoceに立体的な力強さを与えてくれて、より広い帯域で充実した鳴り方をしてくれます。この組み合わせなら(ものすごく高価ですが)幅広いジャンルを不満無く聴けると思います。
今回色々試してみて感じたのは、やっぱりSTAX製アンプというのはSTAXヘッドホンのために最善のチューニングで仕上げてあるようです。Pro iESLのような複雑な可変モードは無く、電源スイッチとボリュームノブのみで、STAX社によって決められた音以外の選択肢はありません。
同じメーカーでヘッドホンとアンプを造るということは、ヘッドホンの長所を引き出し、弱点をカバーするようなアンプ設計を行えますし、ヘッドホンのスペックを超えるような無理をしません。汎用のヘッドホンアンプでSTAXを鳴らすと、そういった相性のギャンブル性が高くなります。
逆に、Voceのような他社の静電ヘッドホンは、STAXのために造られたSTAXアンプで鳴らすよりも、iESLを通して好みのヘッドホンアンプを使う事が有意義だと思えました。
Pro iCANではない別のヘッドホンアンプから、XLR→XLRケーブルでPro iESLに送って、L700を鳴らしてみたところ、問題なく音楽が楽しめました。
上の写真のQuestyle CMA Twelveからだと、ボリュームノブは半分以上に上げる必要がありました。ここまでゴチャゴチャ試すと、もはや遊び半分で、サウンドの感想とかはわけがわからなくなってきますので、具体的なコメントは難しいですが、CMA Twelve自体がかなり温厚な性格なせいか、Pro iESLを通したサウンドもPro iCANとのコンビネーションと比べて柔らかくマイルドで甘いです。
つまり上流アンプの個性がしっかり反映されているという点は確実なようで、「好みのアンプで静電ヘッドホンを鳴らす」という目的は達成できていると思いました。その「好みのアンプ」が必ずしも静電ヘッドホンに良い音をもたらすかが難しいところで、真のマニアが追求すべき果てしない道です。
ついでに、4pin XLRに普通のヘッドホンを接続してみたところ、こちらもちゃんと問題なく音が鳴ります。
背面のXLR Inputからパススルーではなく、トランスでカップリングされているので、直接アンプにつなげるのと比べてサウンドはかなり変わります。Pro iESLの入力インピーダンスセレクターももちろん機能します。
何らかの理由でインピーダンス変換が必要だとちゃんと理解した上で使うべきです。説明書ではAKG K1000などにと書いてありますが、あれも能率が圧倒的に低い(74dB/mW)だけで、インピーダンスは120Ωとそこまで高くないので、鳴らすには相当なパワーが必要です。Pro iESLは魔法の箱ではありません。
上の写真ではQuestyle CMA Twelveから送ったものですが、CMA Twelve単独と、Pro iESLを通した出力を比べたグラフを見ると、結構な差があります。(グラフはPro iESLを64Ωに合わせた状態)。とくに1Vppに合わせた状態のグラフを見てわかるとおり、トランスは当然のごとく出力インピーダンスがぐっと悪化するので、低インピーダンスでパワーが必要なヘッドホンには不向きです。
Audezeのようにインピーダンス特性がフラットなヘッドホンでもそれなりにサウンドが変わるようで、粗っぽさが消え、爽やかなマイルド系の鳴り方になりました。相性は様々なので、過信は禁物です。
iFi Audio Pro
iFi Audioの据え置き型「Pro」シリーズは、今回の「Pro iESL」の他に、DAC+ヘッドホンアンプの「Pro iDSD」と、アナログヘッドホンアンプの「Pro iCAN」があり、どちらも各ジャンルにおいてトップクラスの製品なので、私も新作ヘッドホン試聴などで使う機会が多いです。オーディオイベントの試聴ブースなどでも活躍しているのをよく見ます。上からPro iDSD・Pro iCAN・Pro iESL |
一番高価な約40万円のPro iDSDは、豊富な入出力、複数のアップスケーリングモード、トランジスター&真空管回路切替など、ありとあらゆる機能を搭載しており、これさえあれば相性問題などは気にせず好みのサウンドが見つかる贅沢なユニットです。
ちなみに上の写真のPro iDSDはバランスヘッドホン出力に2.5mmを採用していますが、最近になって4.4mmに仕様変更されたようです。
Pro iDSD単体でも完結したDACヘッドホンアンプとして機能しますし、ヘッドホン駆動性能も優れているのですが、さらにアナログヘッドホンアンプ(約30万円)のPro iCANを足すことで、より強力なパワーと、トランジスター&真空管バッファー切り替え、低音ブースト、クロスフィードなど、自分好みのサウンドを追求することができます。
Pro iDSDのDAC部分を取り除いたのがPro iCANというわけではなく、両者のサウンドは方向性がかなり違います。
ボリュームノブだけのシンプルなアンプとは対極にあるような、ボタンやスイッチが盛りだくさんのマニアックな製品ですが、それがiFi Audioの魅力でもあり、好評を得ています。高価なので私は所有していませんが、ポータブルタイプのmicro iDSD BL・nano iDSD BLなどは持っており、こちらも非常に優れた製品で、日々愛用しています。
Pro iESL
今回紹介するPro iESLは約20万円で、Pro iDSD・Pro iCANでは扱えなかった静電型ヘッドホンを鳴らすための追加ユニットです。静電ヘッドホンというとSTAX社が有名ですが、幸いな事に、他社の静電ヘッドホンもSTAXと同じタイプの5pinコネクターを採用しているものが多いため、それらもPro iESLで鳴らす事ができます。
説明書にはSennheiser HE-60・HE-90、King Sound、KOSS ESP-950などが書いてありますが、他にもSTAXアンプ互換タイプの静電ヘッドホンはいくつか思い浮かびます。
STAX SRM-T8000とiFi Pro iESL |
まず基本的な話になりますが、静電型ヘッドホンというのは、一般的なヘッドホンアンプでは鳴らす事はできません。
一般的なイヤホン・ヘッドホンは、グラウンド(アース)を0V基準に、最大±10Vくらいの範囲で上下に揺れる音楽波形信号を流すことで音が鳴ります(イヤホンの場合±0.1Vとかで十分です)。ヘッドホンのインピーダンスは10~100Ωくらいが一般的なので、そこそこ電流が流れる、いわゆる「低電圧・高電流」駆動です。
一方、静電ヘッドホンでは、音楽信号とは別にもう一本ケーブルがあり、それでヘッドホンにDC (STAXだと580V)基準電圧を送ります。これで振動板を帯電させた状態が基準になり、そこに10-1000Vくらいの音楽信号を差動(バランス)で送って動かします。静電ヘッドホンのインピーダンスは100,000Ωくらいが一般的なので、電流はほとんど流れないため「高電圧・低電流」駆動です。
ちなみに600Vを超えると高圧装置扱いになり、回路やケーブルなどPSE(電気用品安全法)の許認可が変わってしまうので、ギリギリのところが580Vです。
大昔は真空管やブラウン管など数百ボルトを扱うのが当たり前だったので、静電型ヘッドホンと似たような高電圧回路を扱う家電が多かったのですが、最近はトランジスター回路の小型化に伴い、スマホUSBバッテリーに代表されるような低電圧・大電流が主流になってきたので、小さなポータブルアンプで低インピーダンスヘッドホンを鳴らす回路は作りやすくなりましたが、高電圧回路は需要が少ないため設計できる人が少なくなってしまいました。
逆に言うと、静電型ヘッドホンの自社開発というのはヘッドホンメーカーにおける技術開発力の見せ所なので、ゼンハイザー、HIFIMAN、MrSpeakersなど、多くのハイエンドヘッドホンメーカーが最上位機種に静電型ヘッドホンを置いています。
STAX PROコネクター |
Pro iESLの話に戻りますが、この製品は主に二つの事をやっています。まず、静電ヘッドホンに必要なDCバイアス電圧を作っています。
STAXの場合DC580Vですが、典型的なSTAXアンプではトランスと電圧増倍回路の組み合わせで作っています。コンセントAC100Vにそのまま6倍掛けて作るものや、トランスでまず300V程度に昇圧してから2倍掛けるものなど色々です。
Pro iESLも原理的には同じなのですが、高性能な大容量フィルムコンデンサーを大量に投入することで、ほぼ自然放電しないバッテリーとして機能するため、断続的な充電を行うような設計にしたそうです。一旦580Vをコンデンサーに溜め込んだら、あとはヘッドホンが消費する微々たる量を補うために、必要に応じて勝手に充電されます。説明書によると、STAXヘッドホンを鳴らす場合、約30秒に一度、数マイクロ秒だけ充電する程度だそうです。つまりリスニング中99.999%の時間はバッテリー駆動で、コンセント電源などから分離された状態なので、ノイズ混入などを根本的に解消するというアイデアです。
Pro iESLが行っているもう一つの機能は、ヘッドホンアンプから送られてきた音楽信号を、「低電圧・高電流」から「高電圧・低電流」に変換する事です。
説明書には20Vの入力信号を640Vに変換と書いてありますので、だいたいそれくらいの昇圧です。
そのためにアンプではなくトランスで変換しています。オーディオ用トランスというと、MCレコード針用昇圧トランスや、真空管アンプ用の出力トランスが有名ですが、原理的には同じ事です。Pro iESLでは汎用品ではなく鉄コアとパーマロイのブレンドをヘッドホン駆動に最適なバランスでカスタマイズしたそうです。
デジタル世代でトランスを見る機会が少なくなったせいでしょうか、トランス変換というと生理的に嫌だというオーディオマニアも結構多いのですが、この場合、トランスでなければインピーダンス変換アンプを入れる事になってしまうので、Pro iESL本来の役割である「自分の好みのヘッドホンアンプで、静電ヘッドホンを駆動する」という意義としては、トランスが最善の回答だと思います。
古典的なSTAXアンプの場合、トランスではなく真空管かトランジスターのBTL駆動が主流なので、そのあたりが音質の違いを生むだろうと想像します。
接続
筐体デザインはPro iDSD・Pro iCANと共通なので、とくにPro iCANとは一見区別がつきません。
三台を重ねるのは放熱が心配なので推奨できませんが、別売の純正ラックが高価で手に入らなかったので、今回はしょうがなく重ねてしまいました。あいだにゴム足とかを挟んだ方が良かったかもしれません。横に並べるとESL Linkケーブルが届かなくなってしまいます。
Pro iESL |
背面スピーカー端子が特徴です |
三台を重ねるのは放熱が心配なので推奨できませんが、別売の純正ラックが高価で手に入らなかったので、今回はしょうがなく重ねてしまいました。あいだにゴム足とかを挟んだ方が良かったかもしれません。横に並べるとESL Linkケーブルが届かなくなってしまいます。
Pro iDSD・Pro iCAN・Pro iESL |
それぞれにラックの部品を同梱して、三台揃えればラックが完成するとかだと購入意欲が増すと思うので、その点はちょっと残念です。
今回は、DAPからUSBケーブルでPro iDSD → XLR固定ライン出力でPro iCAN → ESL LinkケーブルでPro iESLという構成で接続しました。XLRケーブルはAudioquestの黒いやつです。
ESL Link |
これがPro iESL付属のESL Linkケーブルです。端子はHDMIを流用していますが、互換性は一切ありません。Pro iCANのバランスヘッドホン出力と電源を一本のケーブルにまとめてiESLに送ってくれます。
つまりこのケーブルを使えばPro iESL側のACアダプターは不要になり、Pro iCANの電源を入れると同時にPro iESLの電源も入ります。
ヘッドホンアンプからの強力なアナログパワーを伝達していますし、ピンアサインも不明なので、市販のHDMIケーブルを流用するとかは止めた方が良いと思います。
入力端子 |
背面には三種類の入力端子があります。Pro iCANをすでに持っているなら、ESL Linkケーブルを接続するだけなので一番手軽です。
ESL Linkを使わない場合は、付属のACアダプターが必要です。端子形状がPro iDSD・Pro iCANと同じですが、それらがDC15Vだったのに対してPro iESLはDC5~9Vと書いてあるので、混同しないよう注意が必要です。
Pro iCAN以外のヘッドホンアンプを繋げる場合は、バランスヘッドホン出力から4 pin XLRでPro iESLに接続します。つまりXLR→XLR延長ケーブルのような物が必要です。
繰り返しますが、Pro iESLはヘッドホンアンプではないので、ラインレベルのXLR信号を入力してもダメです。ヘッドホンアンプで増幅された強力な信号をPro iESLに送ります。ボリューム調整もヘッドホンアンプのボリュームノブを使います。
説明書によると、十分な音量を得るためには、ヘッドホンアンプは64Ω負荷で10Vrms (28Vpp) 程度出せるものが必要だそうです。つまり64Ω定格で1.5W程度ということになり、これは据え置き型アンプでも結構厳しいスペックです。
もちろんリスニング音量には個人差がありますが、DAPではほぼ無理でしょう。10Vrmsというと、Pro iCANなら余裕ですが、最低でもSennheiser HDV820、AK L1000、Questyle CMA400i程度が目安だと思います。説明書にはアンバランス入力は可能とは書いてありませんが、どのみちアンバランスで10Vrms以上出せるアンプはそうそう無いと思います。
スピーカーアンプを繋げるためのスピーカー端子もあり、そっちを使う場合、説明書によると最大100W/8Ωのアンプを推奨しています。10W/8Ω程度のアンプでは厳しいそうです。
100W/8Ω(つまり28Vrms)を超えるアンプだと、Pro iESLの入力定格を超えてしまい、静電ヘッドホンも大音量に耐えきれなく壊れてしまう可能性があるので、限度が重要です。そもそもSTAXヘッドホンはSTAX製アンプ(ドライバーユニット)で鳴らす前提で設計してあるので、想定外の扱いで壊してしまっても自己責任です。
ちなみにスピーカーOUT端子もありますが、入力セレクターでSpeakersを選んだ場合ミュートされ、それ以外だとそのままスルーで出るそうです。ワンタッチでスピーカーと静電ヘッドホンを切り替えられるのは気が利いていますね。
フロントパネル左 |
フロントパネル右 |
フロントパネル右端には入力セレクターがあります。Pro iCANと連動する事を想定してか、他の二台のような電源ボタンは無く、セレクターが電源OFFを兼ねています。
AC Termination・Bias・Impedanceノブは音質に影響を与えるので、それらについては後述します。
ヘッドホン出力端子は静電ヘッドホン用が「Normal」と「Custom/Pro」の二系統、さらに4pin XLRヘッドホン端子もあります。
このへんは静電ヘッドホンを所有していないとわかりにくいのですが、「Normal」というのは6pin 230Vという古いタイプのSTAXヘッドホンのための端子です。「Custom/Pro」は5pin端子の現行STAXや、他多数の静電型ヘッドホンメーカー用です。
現行Staxヘッドホンを使う場合はCustom/Pro端子に接続して、Biasを580Vに合わせることになります。
4pin XLRヘッドホン出力は静電型ではなく一般的なヘッドホン用なのですが、単純にヘッドホンアンプからのパススルーというわけではなく、インピーダンス変換トランスを通っています。そのためヘッドホンアンプに直接接続した時とは音質や駆動力がかなり変わると想像します。
ちなみに一般ヘッドホン用といえど、内部の回路構成や保護回路がどうなっているか不明なので(トランスでしかもACアダプターで浮いているので)、ホット側だけとってアンバランスで鳴らすとかはやめた方が良いかもしれません。
音質とノブ設定
静電型ヘッドホンといえばやっぱりSTAXなので、今回の試聴では、個人的に一番好きなSR-L700 (MK2)を主に使いました。ちなみにL700は最近登場したMK2になっても大きな違いは無いと思いましたが、それよりも下位モデルL500の方がMK2になってずいぶんL700に近づいたことに驚きました。
STAX L700 |
STAXをPRO端子に接続して、iESLフロントパネルのノブをいじってみました。
まず「AC Termination」というノブがありますが、これはいまいち効果がわかりにくいです。DCバイアス端子にACターミネーションを入れるかどうか、つまり音楽信号で振動板を駆動することで生じるバイアス電源への影響を逃がすかどうかという事だと想像します。
説明書によると3Dプレゼンテーションに影響を与えるらしいので、スピーカーの逆起電力みたいなものでしょうか。ターミネーションしないと一方のチャンネル駆動のエネルギーが反対側チャンネルバイアスを揺らして一種のクロスフィード的効果が起こるのかもしれません。(全然見当違いの事を言っているかもしれません)。なんにせよ、リスニング中に色々切り替えてみたところ、「なんかちょっと違うかな」というくらいで、そこまで大きな効果は感じられませんでした。ターミネーションONの方がダンプされて落ち着いた鳴り方のような気もします。
「Bias」ノブは500-640Vの範囲でバイアスを切り替える事ができます。現行STAXは580Vで、Pro iESL説明書によるとSennheiser Orpheusが500V、KOSS ESPが600Vなどと書いてあります。わからない場合はヘッドホンの説明書に書いてあるはずです。
厳密にピッタリのバイアス電圧でなくてもヘッドホンは鳴るので、リスニング中に切り替えて聴き比べてみる楽しみもありますが、メーカー推奨以上の電圧をかけてヘッドホンを壊してしまう可能性はあるので、そのへんは自己責任になります。ちなみに電圧を変えてから安定するまで時間がかかるので、カチャカチャ切り替えるのはダメだそうです。
こちらは音質が結構変わるようでした。STAX L700だと、バイアス電圧を下げすぎると音が緩くフォーカスが甘くなり、逆に強すぎると圧迫感がありコンプレッションされたような息苦しさを感じます。この場合、結局580Vがベストでした。
一番右の「Impedance」ノブは96・64・24・16Ωから選べます。これもいまいち動作が不明なのですが、単純に考えると、ヘッドホンアンプから見た昇圧トランスの一次巻線インピーダンスでしょうか。Pro iCANと接続する場合、私は64Ωが好みでした。96Ωは若干大人しく地味で、24、16Ωにすると音量が大きくなる反面、音が鮮烈でやかましく感じます。どれも悪く無いですが、単純に全部聴いてみて一番バランスがとれていたのが64Ωだったという感じです。
ヘッドホンアンプはメーカーごとに多様な特性を持っているので、一筋縄ではいきません。たとえば無負荷時のゲインが非常に高いアンプがある一方で、ゲイン上限は低いものの、低インピーダンスでもしっかり粘ってくれるアンプもあり、アンプごとに引き出せるパワーが最大になるポイントが異なります。
ヘッドホンアンプ出力電圧の一例 |
たとえば以前ブログで紹介した三つのアンプを並べたグラフです。上のLogグラフの右端1000ΩではCMA400iとKANN CUBEはどちらも30Vppを超える電圧を発揮していますが、L1000は34Ω以上では24V程度で頭打ちしているのがわかります。ボリュームノブを上げてもそれ以上は上がらないという事です。
100Ωまでをリニアにプロットしてみると、CMA400iとL1000が互角くらいに粘り強く、KANN CUBEは急激に降下しています。
つまりPro iESLの入力インピーダンスを96Ωに合わせたら、CMA400iでは約30Vpp、L1000は24Vpp、KANN CUBEは13Vppくらい得られます。さらにPro iESLのノブを64・24・16Ωと下げていくとどうなるかグラフを見れば想像できます。
Pro iESLの説明書で、ヘッドホンアンプは64Ωで10Vrms(28Vpp)程度必要だと書いてあった意味がわかると思います。もちろんiFi Audioの想定する最大リスニング音量の話なので、実際そこまで大音量が必要かは個人差があります。
グラフを見てわかる通り、Pro iESLの入力インピーダンスを上げたほうが負荷が軽くなるのでアンプから高い電圧を得られやすいのですが、しかし静電ヘッドホンに送られる電圧は一次巻線と二次巻線の比率なので、一次巻線インピーダンスを下げたほうが、トランスの昇圧比が高くなります。
もし入力インピーダンスを1000Ωとかにしたら、ヘッドホンアンプはほぼ無負荷なので最大電圧が得られますが、L1000のように早くから頭打ちしてしまうアンプでは逆効果ですし、今度は二次巻線側が高インピーダンスになりすぎて(ダンピングファクターが悪化して)静電ヘッドホンを駆動できなくなってしまいます。アンプが空回り状態で十分なパワーが引き出せないということです。
つまりPro iESLのImpedanceノブをどのインピーダンスに合わせるかは、アンプそれぞれのパワー特性によって最適解が異なるということです。
パワー換算 |
さきほどの電圧グラフをオームの法則でパワーに換算するとこうなりますが、L1000・CMA400iともに10~100Ωの間くらいで最大出力が得られるよう設計されていることがわかります。一般的なヘッドホンに合わせた設計と言えます。つまりPro iESLの16・24・64・96Ωという選択肢は妥当な範囲です。
とくにL1000はグラフのピークが34Ωにあり、しかもかなり急なので、Pro iESLのインピーダンスノブは24・64Ωのどちらにすべきか決めるのが難しいです。Pro iESLはアンプを搭載していないので、直接このパワーがトランスを通して静電ヘッドホンを駆動するパワーになっているという点が肝心です。
最大音量の問題だけなら良いのですが、アンプの歪み率など音質スペックの方も、メーカーごとに特定のインピーダンス負荷でベストになるよう設計していますから、必ずしも最大出力イコール最高音質とは限らないのがオーディオの面白いところです。さらに1kHz測定での最大出力が他の周波数でも同じとは限りません。
T8000と比較 |
それはさておき、Pro iCANから64Ω・AC Terminationありという設定が自分なりのベストだったので、それでL700を聴いてみてT8000と比べてみました。
まず聴き始めてすぐに感じるのは、これは明らかにiFi Audioの音だということです。Pro iESLがそうさせているというよりは、Pro iDSD・Pro iCANのサウンドをそのまま正しく伝えることができているということでしょう。
ダイナミックレンジが広く、空間展開も広く、引き締まったシャープな鳴り方です。低音がスッキリした、かなり軽いサウンドだと思います。ハイレゾPCMやDSDなど音源による差や、フィルターモード設定効果など、音の違いが非常にわかりやすく、些細な変化でも正確に聴きとれます。
とくに空間表現が優秀で、演奏は遠すぎず近すぎず、音響空間は前方奥へ遠くまで拡散し、理想的なホール音場を描いてくれます。
続いてDACはPro iDSDのまま、T8000の方につないで聴いてみると、同じL700なのに、サウンドはまるで異なります。低音が重く、中域から下がグッと盛り上がったような暖かみのあるサウンドです。空間展開もPro iESLの時ほどは強調されておらず、主要楽器の音像をしっかり太く描いて、背景と分別するような傾向です。空間の深みよりも音色の深みといったところでしょうか。この方が圧倒的に聴きやすく、明らかにリッチでゴージャスな仕上がりの、聴き惚れる音色です。
これは最近のSTAXアンプに共通する魅力で、SRM-D10・D50などでも同様に「深みがあって聴きやすい」サウンドを実現しています。過去のSRM-353や007とは一味違います。
Pro iESLに戻ってみると、STAXらしい癖が消えて、HD800など開放ダイナミック型ヘッドホンに近い感覚になります。自分の好みとしてはT8000で聴く方が音色に魅力が感じられ、音に惹きつけられます。一方、遠くまで見通せる分析力は断然Pro iESLの方です。
Pro iDSD・Pro iCANのトランジスター・真空管切り替え |
Pro iESLのサウンドが軽すぎるのなら、Pro iDSD・Pro iCANには真空管モードがあるので、それならどうかと試してみました。
双方トランジスターから真空管に切り替えてみたところ、期待していたような効果は得られませんでした。鳴り方が変わるのは確かですが、太く重厚になるというよりは、中高域の質感がツルッと丸くデフォルメされるような感じです。こっちの方が聴きやすいかもしれませんが、情報が不明瞭になり解像感が劣るので、せっかくのSTAXとしてはもったいないと思い、トランジスターモードに戻しました。ダイナミック型ヘッドホンを鳴らす時は、真空管モードを使うことでアタックの金属っぽい刺さりを中和してくれるので好ましいのですが、STAXだとそもそも刺さりが無いので、かえって逆効果なのかもしれません。
やはりT8000とPro iESLの違いというのは、単純に好みの差です。私のように、STAXというのはこうあるべき、こういう音で聴きたい、という先入観と期待を持っている人はT8000の方が良いと思いますし、一方でHD800などダイナミック型の延長線上にある音を期待している人は、Pro iCAN+Pro iESLの方が満足度が高いと思います。
私は色々なヘッドホンでそれぞれの個性を楽しみたいので、あえてSTAXらしさを強調したいのですが、たったひとつのヘッドホンで全てをこなしたいというのならPro iESLのポテンシャルの高さも侮れません。
STAX SR-009S |
せっかくなのでSR-009Sも鳴らしてみました。STAXの最上級ヘッドホンです。
不思議なことに、このヘッドホンはPro iESLでずいぶん上手く鳴らせました。L700では断然T8000の方が良いと思えたのですが、こっちは両方に魅力を感じて、そこまで目立った違いがありません。
単純にL700よりもSR-009Sの方が上位モデルということを踏まえると、T8000はL700の弱点を上手にカバーしてくれるような音作りで、Pro iESLはそれを包み隠さず出してしまうということでしょうか。SR-009Sはそのような弱点が無いので、どちらのアンプでも良好に聴こえる、ということかもしれません。
Mr Speakers Voce |
Mr Speakers VoceもSTAXコネクターを採用しているので、Pro iESLで問題なく鳴らせます。
このヘッドホンは以前STAX SRM-007tAで試聴した時はちょっと個性的すぎる印象だったのですが、Pro iESLで鳴らした方が良い結果が得られました。個人的にはT8000よりもPro iESLで鳴らす方が好みです。
Pro iESLの硬めの性格がVoceに立体的な力強さを与えてくれて、より広い帯域で充実した鳴り方をしてくれます。この組み合わせなら(ものすごく高価ですが)幅広いジャンルを不満無く聴けると思います。
今回色々試してみて感じたのは、やっぱりSTAX製アンプというのはSTAXヘッドホンのために最善のチューニングで仕上げてあるようです。Pro iESLのような複雑な可変モードは無く、電源スイッチとボリュームノブのみで、STAX社によって決められた音以外の選択肢はありません。
同じメーカーでヘッドホンとアンプを造るということは、ヘッドホンの長所を引き出し、弱点をカバーするようなアンプ設計を行えますし、ヘッドホンのスペックを超えるような無理をしません。汎用のヘッドホンアンプでSTAXを鳴らすと、そういった相性のギャンブル性が高くなります。
逆に、Voceのような他社の静電ヘッドホンは、STAXのために造られたSTAXアンプで鳴らすよりも、iESLを通して好みのヘッドホンアンプを使う事が有意義だと思えました。
XLR Input |
Pro iCANではない別のヘッドホンアンプから、XLR→XLRケーブルでPro iESLに送って、L700を鳴らしてみたところ、問題なく音楽が楽しめました。
上の写真のQuestyle CMA Twelveからだと、ボリュームノブは半分以上に上げる必要がありました。ここまでゴチャゴチャ試すと、もはや遊び半分で、サウンドの感想とかはわけがわからなくなってきますので、具体的なコメントは難しいですが、CMA Twelve自体がかなり温厚な性格なせいか、Pro iESLを通したサウンドもPro iCANとのコンビネーションと比べて柔らかくマイルドで甘いです。
つまり上流アンプの個性がしっかり反映されているという点は確実なようで、「好みのアンプで静電ヘッドホンを鳴らす」という目的は達成できていると思いました。その「好みのアンプ」が必ずしも静電ヘッドホンに良い音をもたらすかが難しいところで、真のマニアが追求すべき果てしない道です。
Audeze LCD2C |
ついでに、4pin XLRに普通のヘッドホンを接続してみたところ、こちらもちゃんと問題なく音が鳴ります。
背面のXLR Inputからパススルーではなく、トランスでカップリングされているので、直接アンプにつなげるのと比べてサウンドはかなり変わります。Pro iESLの入力インピーダンスセレクターももちろん機能します。
何らかの理由でインピーダンス変換が必要だとちゃんと理解した上で使うべきです。説明書ではAKG K1000などにと書いてありますが、あれも能率が圧倒的に低い(74dB/mW)だけで、インピーダンスは120Ωとそこまで高くないので、鳴らすには相当なパワーが必要です。Pro iESLは魔法の箱ではありません。
上の写真ではQuestyle CMA Twelveから送ったものですが、CMA Twelve単独と、Pro iESLを通した出力を比べたグラフを見ると、結構な差があります。(グラフはPro iESLを64Ωに合わせた状態)。とくに1Vppに合わせた状態のグラフを見てわかるとおり、トランスは当然のごとく出力インピーダンスがぐっと悪化するので、低インピーダンスでパワーが必要なヘッドホンには不向きです。
Audezeのようにインピーダンス特性がフラットなヘッドホンでもそれなりにサウンドが変わるようで、粗っぽさが消え、爽やかなマイルド系の鳴り方になりました。相性は様々なので、過信は禁物です。
おわりに
iFi Audio Pro iESLで色々と遊んでみましたが、かなり奥が深いというか、マニアックな製品です。様々な調整パラメーターや、上流ヘッドホンアンプとの組み合わせで、多彩なサウンドが得られるのは、静電ヘッドホンの可能性を一気に広げてくれます。
これをさらっと作ってしまうiFi Audioの技量と度胸にあいかわらず驚かされます。変なガレージメーカーならまだしも、もはや世界的な大手メーカーでありながら、安定志向に走らないチャレンジ精神が凄いです。というか、こういう物をしっかり作れる技術力があるからこそ、代表作micro iDSD・nano iDSDなどが超ロングセラーで活躍できているのだと思います。
では、誰がPro iESLを買うべきかと考えてみると、かなり限られた上級者のためのニッチな商品です。万人には理解され難い商品ですが、こういうのを欲しい人にとっては唯一無二、ライバル不在の商品です。
STAX T8000とiFi Audio Proシリーズ |
ひとつ忘れてはいけない肝心のポイントは、静電ヘッドホンというジャンルの中では、Pro iESLはそこまで高価ではない、という事です。今回の試聴ではSTAX T8000と聴き比べましたが、価格差は三倍以上です。
つまりiFi PROシリーズのフルセットを揃えるのとT8000を買うのは同じくらいの予算で検討できます。すでにPro iCANを持っている人はもちろんのこと、これから最高級な何でもこなせるヘッドホンオーディオシステムを買いたいと思っている人にとっても、そう悪くない提案です。
もちろんSTAXの方も負けてはおらず、T8000を筆頭として、最近ではSRM-D10やD50など優れた次世代アンプ(ドライバーユニット)が続々登場しているので、これまで停滞気味だった静電ヘッドホンにようやく活気が出てきたのが嬉しいです。
それぞれ個性の異なる完成されたサウンドを楽しむSTAX純正アンプか、自己流で理想のサウンドを追求できるPro iESLか、ユーザーの個性が大きく分かれるところです。
つまりiFi PROシリーズのフルセットを揃えるのとT8000を買うのは同じくらいの予算で検討できます。すでにPro iCANを持っている人はもちろんのこと、これから最高級な何でもこなせるヘッドホンオーディオシステムを買いたいと思っている人にとっても、そう悪くない提案です。
もちろんSTAXの方も負けてはおらず、T8000を筆頭として、最近ではSRM-D10やD50など優れた次世代アンプ(ドライバーユニット)が続々登場しているので、これまで停滞気味だった静電ヘッドホンにようやく活気が出てきたのが嬉しいです。
それぞれ個性の異なる完成されたサウンドを楽しむSTAX純正アンプか、自己流で理想のサウンドを追求できるPro iESLか、ユーザーの個性が大きく分かれるところです。