2019年9月1日日曜日

Noble Audio Khan イヤホンの試聴レビュー

Noble Audioの新作IEMイヤホン「Khan」を試聴してみました。2019年5月発売の最新作です。同メーカーのユニバーサルタイプ最上級クラスということで、米国サイト直販価格が$2,399、日本では約29万円の大変高価なモデルです。

Noble Audio Khan

いわゆるマルチドライバータイプなのですが、極めてユニークな点として、高域用にピエゾ素子を採用しており、これが実際音質に大きな効果をもたらしています。


Noble Audio

Noble Audioは2015年頃から日本のIEMイヤホン市場に参入してきた比較的新しいメーカーですが、その後イヤホンブームで多くのイヤホンブランドが乱立する前なので、そういった意味ではもうベテラン老舗メーカーと言っても良いかもしれません。

とくに今回のようなユニバーサルIEMとは別に、ユーザーの耳型を元に希少素材やデザインまですべてオーダーメイドで作るカスタムIEMの超高級ブランドとしてのイメージが強いです。それらの一部はWizard DesignとしてユニバーサルIEMの限定モデルとして販売されたり、オーダーメイド品の写真ギャラリーが充実していたり、正真正銘のブティックブランドというのはこうあるべきという手本のような存在です。

2015年当時、まだほとんどの人がShureやWestoneなどでBAドライバーは3基と5基どっちを買うべきかかなどと議論していた時に、いきなり10基搭載で20万円近くするKaiser 10という高級モデルを発売して、ハイエンドIEMイヤホンの代名詞に躍り出たのは記憶に新しいです。

その頃からあるIEMメーカーというと、Noble Audio以外でもJH Audio、64Audio、Campfire Audioなど、それぞれ独自の開発力や音質チューニング技術が卓越しており、現在これだけ多くのイヤホンメーカーが大量に出回っても、未だにハイエンドとしての存在感を失っていません。

Noble Khan

Khanがユニークなのは高域用ピエゾ素子ドライバーを搭載していることですが、全体の構成は低域用ダイナミック×1、中低用BA×2、中高用BA×2、そして高域用ピエゾ×1という6ドライバーIEMです。つまりダイナミックとBAのハイブリッド型でもあるという事も、これまで主にマルチBAのみだったNoble Audioとしてはユニークです。ちなみにBAユニットは公式サイトにあえてKnowles製と記載されているので、K10 Encoreなどに搭載する独自のNoble Driverではないということを言いたいのでしょうか。

ピエゾ素子というと、家電やデジタル時計のアラーム音でピーピー鳴る簡易的なスピーカーで使われていますが、それ以外でいわゆる音楽鑑賞に使われることは極めて珍しいです。

ピエゾは圧電素子といって、圧縮すると微小な電圧を発生する性質を持つ素材の事で、身の回りのセンサーなどにも多用されています。(自然には水晶やトルマリンなどがそういう性質があります)。逆に言うと、電圧を与えれば縮むので、これを振動板に貼り付ければ音楽信号によって縮んだり膨張したりで振動板を動かす事ができる、というのがピエゾスピーカーの原理です。

コイルや磁石が不要で、最小単位でスピーカーを作る事ができるため、低価格・小型化に向いており、さらに近頃は正確に振動するための技術開発が進むことで、このKhanのようにオーディオ用途のユニットも出始めてきました。ダイナミックスピーカーのような大振幅は不可能でも、薄い振動板を高速に駆動できるということで、とくに高音用ドライバーに向いています。大型化が難しいというのも、イヤホンに向いている理由の一つです。

そんなピエゾドライバーは音楽鑑賞に向いているのか、というのは、このKhanを含めてちょうど今が実証の時なのでしょうけれど、もしこれで高評価を受ければ、原理的には安価に作れるはずなので、一昔前のBAドライバーのように、イヤホンにおける新たな革命が起こるかもしれません。

KhanとK10 Encore

Noble AudioのユニバーサルIEMシリーズというと、すでに何度か中身やデザインのアップデートが行われてきましたが、最上位には常に10BAのKaiser 10(K10)というモデルを置いています。

現行モデルの「K10 Encore」は約24万円なので、今回登場した29万円のKhanの方が高価です。一応カタログ上ではK10 Encoreの特注モデルで真鍮ハウジング+ローズゴールドメッキ仕様のものが30万円超で存在しています。

どちらにせよ、ここまで高価になると、数万円の差が音質の優劣を意味するわけではないので、ようするにKhanとK10は同じくらい自信がある商品だということでしょう。ちなみにK10 Encoreと同価格で9ドライバーの「Katana」というのもあるので、もし購入するとなると、どれを選ぶべきか、かなり悩むことになりそうです。

KhanとKatana

K10 EncoreやKatanaなど、現行ユニバーサルIEMシリーズは、特徴的な楕円アルミ削り出しハウジングを採用してるのですが、今回のKhanのみ、まるでカスタムIEMのような形状になっています。

Khanのデザインは、どちらかというとJH AudioやUnique MelodyなどカスタムIEMをベースにしたイヤホンに似ており、装着感もそれらに近いです。

これまでのNoble AudioユニバーサルIEMは、独特な楕円形デザインのためフィット感がちょっと特殊で、うまくフィットできないという人もいたので、(私自身は全然問題なく、むしろ快適なのですが)、Khanのような無難で一般的なデザインの方が、より多くの人に対応しやすいのだろうと思います。

黒と銀のアートワーク

Wizardロゴ

カスタムIEMに近いデザインということで、ハウジングの外面(いわゆるフェイスプレート)もアートワーク調になっており、Wizardという刻印があるため、Wizard Designシリーズの一員ということになるようです。

私の好みとしては、この白黒ペンキを混ぜ合わせたようなデザインはちょっと地味で、そこまで魅力を感じません。もっとメタリックでキラキラしたKatanaや下位IEMモデルの方がカッコいいと思うのですが、このへんは好き嫌いが分かれそうです。ちなみにK10のKaiserが皇帝というのにちなんで、Khanは皇帝ジンギスカン(チンギス・ハーン)の事だと思います。

Khanケーブル

ケーブル比較

Khanには新たに専用のケーブルが付属しており、白黒のワイヤーがハウジングデザインとマッチしています。他のモデルはどれも黒いケーブルでした。どちらも銀メッキ銅だそうですが、手触りはKhanの方が太いので、中身の線材も違うのでしょう。

これまでのNoble Audioというと、付属ケーブルがしょぼいので、買ったらまずケーブルをアップグレードするという人が多かったのですが(そのため公式サイトでもアップグレードケーブルを売ってます)、Khanのケーブルは悪くないので、このまま使い続けても良いかなと思えます。どちらにせよ、付属品は3.5mmのみなので、バランス接続したい人は別途ケーブルを買う必要があります。

ちなみに今回Khanには3.5mmの「スマホアダプター」というアイテムが同梱されています。別売で$29でも売っているのですが、一種のフィルター・アッテネーターのようなものです。公式の説明によると、Khanは一部のスマホに接続すると電波ノイズなどが混入してノイズが聴こえる可能性があるので、その場合はこのアダプターを使えということらしいです。

Khan以外でも、多くのIEMイヤホンでは、ソースによって結構プチプチ・チリチリといったノイズが聴こえる事が多いです。もちろん優れたオーディオ機器で鳴らせばこういったノイズは発生しませんが、近頃はDAPなどでもBluetoothやWiFiを搭載しており、それらをONにしているとノイズが多すぎてまともに音楽が聴けないという本末転倒なケースが多発しているので、悩まされている人は多いでしょう。

2pin端子接続

ケーブル端子がずいぶん飛び出します

Khanに、というかNoble Audio全般に、個人的に一つ不満があるとすれば、ケーブルコネクターの接続部分です。一般的な2ピンIEMタイプを使っているのは別に構わないのですが(むしろMMCXのようにグルグル回転しないので良いのですが)、ピン周辺の長方形スロットが浅いため、ピンに曲げ負荷がかかるリスクが高いです。最悪ピンが折れたら一巻の終わりなので、それが心配でカジュアルに扱えません。

Khanは予算的にちょっと手が出せませんが、もっと安いモデルでも一個買ってみようかなと常々思いながら、このケーブル端子のせいで毎回ためらってしまいます。64Audio・Empire Earsなんかも同様です。たとえばUnique melodyくらい深めのスロットにしてくれれば良いなと思っています。

実際のフィット感はかなり良好です。イヤーチップはSpinFit・Final・Azlaなど普段使っているものを色々試してみましたが、どれも良好でした。本体サイズは大きめですが、ノズルの長さや角度が絶妙で、長すぎず短すぎず、私の耳にしっかりフィットしてくれます。ハウジングやケーブル位置の安定性も優秀なので、さすがカスタムIEMを長らく作ってきたメーカーだけあります。装着感に関して不満は一切ありません。ケーブルも見た目ほど固くはないので、装着の邪魔になるようなことはありませんでした。カスタムっぽいスタイルのIEMイヤホンに慣れている人なら、とりわけ珍しい事は無いと思います。

音質とか

Hiby R6 PRO DAPを最近よく使っているので、試聴は主にそれで行いました。さらに、非常に高価なハイエンドイヤホンなので、贅沢な据え置きアンプのiFi Audio Pro iDSDも使ってみました。

Hiby R6 PRO

iFi Audio Pro iDSD

Khanは公式スペックによると16Ω・109dB (/mW?)と書いてありますが、実際に鳴らしてみてもそれくらいの印象です。DAPやスマホでも問題なく音量が出せるので、ごく一般的なマルチBA型IEMと同程度と考えれば大丈夫だと思います。もちろんここまで高価なイヤホンをスマホとかで鳴らすのはもったいないと思いますが。


Smoke SessionsからJimmy Cobb 「This I Dig of You」を聴いてみました。今年90歳になるコブはマイルスやコルトレーンの時代から第一線のドラマーです。

このアルバムでも元気にしっかりしたドラミングを披露してくれますが、ギターのPeter Bernsteinが全曲でメロディやソロを任され頑張っているので、ジャズギター好きならなお楽しめます。ともかく、1959年 Kind of Blueでドラムをやっていた人が、2019年にアルバムを出してくれるというのは凄いですね。つまりジャズはベテランと若手で世代間の技術や伝統の継承がしっかりと行われているという事が伝わってきて、なんだか嬉しいです。


Khanを聴いてみて、真っ先に感じたのは、これは前例のない凄いサウンドだということ、そして同時にかなり独特な個性を持ったイヤホンなので、好き嫌いがかなり大きく分かれるタイプだとも思います。私自身はかなり気に入りました。

Khanのどこがそんなに凄いのかというと、一瞬でわかる圧倒的な開放感です。これまで聴いてきた無数のイヤホンの中で、Khanほど「開放型ヘッドホンに近い」サウンドを得られるモデルは無いと思いました。

一方で、個性的で好き嫌いが分かれると感じるのは、高音と低音の鳴り方(表現)に大きな差がある事です。ハイブリッド型でよくあるケースだと思います。


まずKhan最大のメリットである開放感についてですが、高音のピエゾドライバーは確かに効果が感じられます。簡単に言えば、ドラムなど高音の打撃がかなり硬くメリハリがはっきりしています。しかし、耳栓のような圧迫感が無く、高音も鼓膜付近ではなく、もっと遠くへと広く拡散されます。まるでイヤホンハウジングの存在が消えるかのようです。音量の強弱よりも、この「聴こえ方」が開放型ヘッドホンと非常によく似ています。

Khanのハウジングを見ると、音導管の裏あたりに小さな通気孔が見えます。Unique Melodyや64Audioなどでも見られる構造ですが、これも開放感の良さ、圧迫感の少なさに貢献しているのかもしれません。しかしそれらがあくまでIEMイヤホンのサウンドであるのに対して、Khanはその限界を超えてしまったかのような、高音のヌケの良さが感じられます。

開放型っぽいといっても、遮音性に悪影響を与えるようなものではないので、IEMイヤホンとして十分な遮音性を実現できています。「電車の中とかでもこのレベルの音を聴けるのは凄いな」と素直に関心しました。

とくにこのジャズアルバムは、最近では珍しくステレオがかなり広く録音されており、ピアノは左、ギターは右、ドラムがセンターと、明確に振り分けられています。こういう不自然にステレオ感が強すぎるアルバムは、密閉型ヘッドホンやIEMイヤホンで聴くと、耳元をくすぐるような違和感があり、不快感や聴き疲れにつながるのですが、Khanでは刺激的なソースが耳から離れた場所から遠くに向かって発せられるため、長時間聴いても不快感がありません。音自体はシャープで硬いのに、不快に感じず、リラックスして聴けるというのが、まさに開放型ヘッドホンに近いです。


ピエゾドライバーの高音の出音が硬いというのは、常にキンキン鳴り響いているのとは違います。そういうイヤホンは、楽器本来ではない響きが上乗せされるため、それが美しい味付けになったり、不快な刺さりになったりするのですが、Khanの場合、とにかくカチッとして、響きはすぐに収まり、周囲の空気感がサラサラと広がっています。

余計な響きが少なく、カチッとしているというのは、これまでのK10やKatanaなど、Noble Audioらしい特色だと思いますが、Khanはその延長線上にあることが感じられました。


私は高音が派手めなイヤホンが好きなので、個人的に所有しているものでは、たとえばDita DreamやCampfire Audio Andromedaなどが該当すると思いますが、それらとKhanは根本的に違います。

Khanの場合、高音が派手といっても、たとえばAndromedaのようにギターやピアノが艶っぽく綺麗に鳴るというのではなく、音色そのものにそこまで魅力はありません。

Dreamの方は、シングルダイナミックドライバーと堅牢なハウジングの組み合わせで、低音から高音まで、一切の整合性の悪さを感じさせない事が魅力です。シンプルなジャズ録音などでは、マイクとイヤホンが一対一のリアルな関係だと感じさせるのが、Dreamを筆頭とするシングルドライバー機の魅力です。

Khanの場合、そういった一般的なイヤホンにおける高音の表現とはずいぶん違います。IEMイヤホンの上にもう一段、別の高域専用イヤホンがポンと乗っているようなイメージです。つまりこれがピエゾドライバーだと思います。

よくイヤホンで高音を強調するために金属ハウジングで響かせるという手法が使われますが、それとはかなり違い、明らかに「未体験のなにか」がプラスされ異次元の爽快な高音が味わえます。

ドラムのアタック部分や、音場の空気といった成分が広大に聴こえるような感じですから、音楽そのものが細いとか派手というわけではありません。イメージとしては、大きなホームオーディオ用フロアスタンディングスピーカーに、高性能リボンツイーターが追加されたような感覚です。

こういった、スピーカーで使われるような本当の意味でのツイーターを、実は今までのイヤホンでは体現できていなかったのでは、とすら思えてしまいます。

つまり、もっと具体的に例えるなら、Khanとそれ以外のイヤホンの違いは、バイワイヤリングのスピーカーで、ツイーター用スピーカーケーブルを接続し忘れた、くらいの差があります。(やったことが無い人は、機会があれば是非試してみてください。ツイーターケーブルを外しても、知らなければ意外なほど普通に音楽が楽しめ、慣れればこれが当たり前だと錯覚してしまいます)。Khanとそれ以外のイヤホンでは、高音表現に関してそれくらいの格差を感じてしまいます。

Khanを聴いたあとだと、同じNoble AudioのK10 EncoreやKatanaですら、空間の上のほうが耳栓のように詰まっているように聴こえてしまいます。高音楽器の音色自体は似ているので、ピエゾドライバーの効果がわかりやすいです。


Harmonia MundiからAntoine Tamestitによるバッハのヴィオラ・ソナタを聴きました。ヴィオラ・ダ・ガンバ向けの作品をヴィオラで弾いたそうです。チェンバロは最近どんどん活躍の場を広げている鈴木優人です。

ジャケット写真でも堂々と見せびらかしているように、このストラディバリ1672年「マーラー」を録音に使ったことが話題になっています。ストラディバリ作によるヴィオラはヴァイオリンと比べて圧倒的に数が少なく、全部で13本と言われていますが、インタビューによると、この楽器は特に長期間(100年近く)演奏されていなかった時期があり、そのせいでまだ音を落ち着かせるのに苦労させられ、往年のヴィオラ奏者達からも難物として悪名高かったそうです。それが近年50年ほど鳴らし込まれ、現代の職人や歴代奏者の苦労もあり、ようやく満足な形になってきたというのだから、楽器というのは面白いものです。


Khanでこのアルバムを聴いてみると、ピエゾドライバーのおかげでチェンバロの鳴り方が爽快です。一音一音の打鍵がクリアで、情報量が多く、音色も正確ですが、音色自体はシンプルで、あまり面白みはありません。Noble Audioらしいサウンドとも言えますが、楽器そのものを油絵のように誇張するのではなく、広々と余裕を持ったホールの中に佇む楽器というリアルな情景全体を描写するタイプです。

ハイエンドIEMでも、たとえば64AudioやCampfire Audio、JHのSiren Seriesなどは、上級機でもあえて響きのチューニングを加えて、下手な音楽でも美しく聴こえるような努力をしているのですが、Noble Audioは10万円台のDjangoやDolce Bassくらいを境にそれを止めてしまい、このKhan、K10 Encore、Katanaなど最上級機はあえて「音色を盛らない」ことを徹底しているようです。

イヤホンブームが加熱して、音楽の質よりもイヤホンの質にお金をかける人が増えてきたことと比例するように、このような「悪い録音の音色を盛らない」イヤホンは人気が落ちてきたような印象があります。

とくにチェンバロのような打弦楽器は、優れた録音であれば潤沢な過渡特性を持っており、Khanで聴くことで、まるで設計図のように一音ごとの音の粒の中身まで覗けます。腕が動いて指が鍵盤を触り、アクションが弦を弾き、響板が響き、周囲の空間に広がっていく、という過程です。

一方、ストリーミングなどの圧縮音源はもちろんのこと、下手な録音やミックスで、過渡情報が欠落している(もしくはノイズに埋もれている)録音だと、Khanのせっかくのピエゾドライバーは、質感の乏しい尖った音を鳴らすだけで、かえって逆効果です。96kHz・24bitが必須とは言いませんが、CD音源であっても録音品質の優劣がそのまま聴きやすさに直結する、正直なイヤホンであることは確かです。


このクラシック録音を聴いてみて、Khanの弱点だと感じたのは、帯域バランスの悪さです。ハイブリッド構成で、低音にダイナミックドライバーを使っている事も原因だと思いますが、Khanは低域に近づくにつれ、サウンドがどんどんフワフワしてフォーカスが甘くなります。ドスドス圧迫する低音ではないのは良いですが、その真逆で、質感が緩く、音の実在感が弱いです。

そうあるべく設計されたのか、それとももうちょっと改善の余地があるのかは不明です。線が細いとか量が少ないというのではなく、十分な量は鳴っているのに、メリハリが薄いです。つまり帯域レベル的にはフラットに近く、楽器音のリアリズム的には不十分だと思います。

これは単純に低域用ドライバーのみの問題というわけではなく、クロスオーバーや中域BAドライバーとの位相合わせなども関わっているのだろうと思います。

具体的な例では、このアルバムの主役であるヴィオラの音色です。チェロ並みに低い音を求められていますが、音がぼやけてしまい、どうしてもチェンバロの瑞々しさに負けてしまうパッセージが出てきます。

ヴァイオリンと比べて、ヴィオラはただ単純に音が低いわけではなく(譜面上の音域はほとんど差はありません)、ヴァイオリンは間近な高調波かなりランダムに沢山出るのと比べて、ヴィオラは二次や四次など特定の倍音の列が上の方までずっと続きます。

つまり特定の周波数帯だけが鳴っているだけでなく、弦と箱鳴りの倍音成分や、弓で擦る質感なども含めて、複雑な波形が正確に重なり合って、優れた楽器の音色として成立します。これが生楽器の魅力であり、奏者の腕前と、件のストラディバリを聴きたくなる醍醐味でもあり、イコライザー調整などではどうにもならない部分です。

Khanはハイブリッド型イヤホンにありがちな中低域タイミングの滲みが感じられるので、ヴィオラの一音を構成するパーツが上手に噛み合っていない印象があります。もっと前にせり出してほしいのに、なんだか遠くの方でぼやけていてもどかしいです。マイルドで聴きやすいという点はメリットでもあるので、これ以上強めると不快な音圧になるからという判断なのかもしれません。

Khanと似ているようでいて実は正反対のハイエンドイヤホンというと、64Audio Tia Fourtéが思い浮かびます。聴き比べてみると全く性質が異なり、私はどちらかというとKhanの方が好みです。

64AudioのTiaドライバーシステムは超小型BAドライバーをハウジング最先端の音導管の中に詰め込むという手法で、アイデアとしてはJVCマイクロHDドライバーなどと似ており(あちらはダイナミックドライバーですが)サウンドの傾向も似ています。特殊な高音専用ドライバーであっても、使い方がKhanのピエゾドライバーとはずいぶん異なります。

Tiaドライバーの場合は最高音の空気感やアタックではなく、女性ボーカルや高音楽器の音色にスポットを当てています。それら楽器の存在感が、鼓膜の間近で派手に鳴ります。さらに低音もインパクトが強く、ドスンと弾むような力量があるため、目覚ましいドンシャリを絵に書いたようなイヤホンです。まるで低音重視の密閉型ヘッドホンを装着した上で、その中でさらに、EtymoticのようなシングルBAイヤホンを耳奥に挿しているような、わかりやすい鳴り方です。

中低音の力強い演奏をバックに、中高域がグッと迫って聴き取れるというインパクトは凄いのですが、耳周辺に詰まったサウンドの中で高音だけ飛び出してくるという感じなので、Khanのような開放感や空間距離の広さとは正反対です。どちらも超高級イヤホンですが、普段聴く音楽ジャンルなどによってここまで求められるサウンドが異なるという面白い例です。

おわりに

Noble Audio Khanは非常に高価なイヤホンですが、それに十分見合う凄いサウンドでした。

近頃は高額なハイエンドイヤホンの種類も多く、似たり寄ったり、色々と新作イヤホンを試聴しても、どれもあまりパッとしない中で、Khanは久々に「これはぜひ欲しいな」と思えたモデルでした。完璧とは程遠いですが、これまでのイヤホンでは得られない、新しい魅力をもたらしてくれたことは確かです。値段がここまで高くなければ買っていたと思います。


独自のピエゾドライバーが効果を発揮していることはたしかですが、下手なメーカーがピエゾユニットを詰め込むだけで済むほど単純な話ではないので、ここはやはりNoble Audioの卓越したサウンドチューニング技術が腕を発揮しているのでしょう。


Khanはどういう人が買うべきかというと、たとえば高音質な生演奏録音を長時間じっくり聴いていたいイヤホンとしては最高の部類だと思います。普通のIEMのような圧迫感が無いので、リラックスして聴けます。艷やかな美音とは真逆の、硬いサウンドなのですが、開放感の高さで聴きやすくしているという点がユニークです。

私だけかもしれませんが、仕事終わりで寝る前とか、旅行中の待ち時間とか、普段より疲労している時だと、せっかくだからちょっと音楽を聴こうと思っても、いざ聴き始めると押し迫る音圧に耐えきれず、長く聴いていられません。小音量で聴くと、こんどは意識を集中しないと内容が引き出せないので、逆に疲れてしまいます。

個人的に、そういったシーンで、疲労感少なく聴けるイヤホンというのを長らく探し求めているのですが、自分の中でとくに気に入っている例はゼンハイザーIE60・IE80sで、長年愛用しています。(IE800sも良いですが、音が細くてちょっと物足りません)。

Khanはそんなゼンハイザーイヤホンと似た圧迫感の少なさと、さらにワンランク上の、ゼンハイザーは絶対やらないような過剰な広帯域化を試みた、というイメージです。サウンドが硬く色気が無いという点もゼンハイザーに近いです。

ポータブルで使えて、開放感が得られるモデルというと、ヘッドホンでも意外と満足のいく選択肢が少ないです。思い浮かぶのはAudeze iSINE、PortaPro、小型Gradoとかでしょうか。Khanはイヤホンでありながら、それらと同じくらいの高域の開放感が得られ、しかも遮音性が良好なので、外出時でも使えます。こういうのを探し求めていたという人は多いかもしれません。

音色の魅力や、帯域の整合性などはまだ改善の余地があると思いますが、本質的には優れたイヤホンだと思います。試作実証機という意味でも高価になってしまうのでしょう、少量生産のWizard Designというのも高価な理由だと思います。

懐に余裕がある人なら、現時点で、ここまで独創的なイヤホンサウンドを体験できるのは稀なので、そういった意味でKhanは、また新たに当たり障りのない無難なハイエンドイヤホンを買い足すよりもよほど有意義だと思えます。