2019年12月25日水曜日

Massdrop x KOSS ESP/95X 静電型ヘッドホンのレビュー

Drop (Massdrop) とKOSSのコラボモデルESP/95Xを買ったので、感想とかを書いておきます。

Massdrop × KOSS ESP/95X

STAXなどと同様に高電圧バイアスの静電型ヘッドホンで、専用アンプユニットとセットで販売しています。1990年に発売したKOSS ESP/950の現代版アレンジということで、価格も圧倒的に安かったので、つい買ってしまいました。


DROP

米国オンラインショップDrop(旧Massdrop)は大手ヘッドホンメーカーとの限定コラボ商品を定期的にリリースするので、これまでブログでも何度か取り上げてきました。

最近ではベイヤーダイナミックDT1770PROの廉価版DT177Xがありましたが、過去にはAKG K702のK7XX、ゼンハイザーHD650のHD6XX、フォステクスTH-X00など、定番ヘッドホンに若干アレンジを加えて低価格で販売するパターンが多いです。

音質面で妥協することなく、デザイン、付属アクセサリー、パッケージなどを極限まで簡素化することでコストを下げ、一定数の予約が集まってからメーカーでロット生産してもらう、という仕組みで価格を下げています。

多くのDrop限定ヘッドホンは、数百個の初回ロット分が予約分で全部売り切れてしまうほどの人気があり、発表当日に急いで予約しないと逃してしまうくらいだったのですが、今回のKOSSはどうも売れ行きが芳しくなかったらしく、2019年2月の発表からいつまで経っても注文可能となっており、最終的には製造分を売りきれず「即日発送在庫あり」という状況になってました。

私も発表当時の告知メールで見て、静電型ということもあり、ちょっとは気になったのですが、発売価格US$500+送料で、約6万円弱というのを考えると「そこまで欲しくないかな・・・」と保留にしていました。過去にDropで買ったヘッドホンは、AKG K7XXやゼンハイザーHD6XXなど、どれも$200程度だったので、話のネタとして買ってみるかという気になりましたが、$500はちょっと財布に厳しいです。

よほど売れなかったのか、11月には在庫処分価格で$400に下がったので、ようやく重い腰を上げて注文することになりました。ちょうど年末には実家に帰省していて退屈になるので、ヒマつぶしと自分へのクリスマスプレゼントとして、実家宛に送っておいたわけです。

KOSS ESP

KOSSといえば、あの伝説のヘッドホンPortaProを作っている米国のヘッドホンメーカーですが、1950年代から現在まで活躍する最古のヘッドホンメーカーの一つだということはあまり知られていません。


PortaPro Wireless

公式サイトに素晴らしい写真入り年表が
あるので、それを参照してもらいたいですが、1958年にレコードプレーヤーへの付属品として世界初のステレオヘッドホンを発売したというのだから凄いです。

1960年代にはレコーディングスタジオから大統領専用機までKOSSヘッドホンが広く採用され、年表にある無数のアーティスト写真からもわかるように、アメリカのポピュラーエンターテインメント産業の黄金期とともに歩んできた老舗ブランドです。無線通信やパイロット用など業務用のゴツいヘッドホンはもちろんのこと、当時から「プライベート・リスニング」と称して趣味の音楽鑑賞用ヘッドホンにも注力していたのは先見の明があります。

1980年代にはソニー・ウォークマンの到来とともに軽快なポータブルタイプのラインナップが増えてきて、そこで登場したのが、あの有名なPortaProでした。今聴いても素晴らしい音質のヘッドホンだと思います。

サイト年表にモデル系譜が掲載されていますが、PortaPro以外にもカッコいいモデルが沢山あったようなので、こういうのもアレンジを加えて復刻してほしいですね。当時の広告も時代ごとの奇抜なセンスがあって面白いです。PortaPro以降も、KSCシリーズやThe Plugなど、日本でもそこそこヒットした懐かしいモデルがあります。

残念ながら近年は色々と経営難で、新製品も減り、あまり名前を見なくなってしまいました。有名な話ですが、社員の一人が2004年から2009年まで不正会計で3100万ドル(約30億円)以上という天文学的な金額を横領して懐に入れていたという、個人経営の中小企業としては米国史上前例を見ないほどの不祥事があり、その件でKoss社長が経営に無頓着だった事がコーポレートガバナンスの問題として取り上げられるなど、再建に苦労しています。

そんなわけで近年のヘッドホンブームに乗るチャンスを丸々逃してしまったのは非常に残念です。もし不祥事が無ければ(そして3000万ドルが開発費になっていれば)現在のヘッドホン業界を牽引するようなトップブランドになっていたかもしれません。

Pro4AA KPH30i PortaPro Retro

最近ではSP540・SP330・Pro4Sなど、コストパフォーマンスが高く、音も結構良いヘッドホンを出しているのですが、いかんせん地味で、日本での売り込みも弱いです。昨年はPortaProのワイヤレス版を出すなど健気に頑張っていますし、個人的にはRetro BundleというベージュのPro4AA・KPH30i・PortaProのセットが大好きです。

とくにKPH30iは4000円台という低価格なのでヘッドホンマニアには見向きもされませんが、実に良いヘッドホンなので、機会があればぜひ聴いてみてください。私は以前ベージュのKPH30iを10台ほどまとめて買って、知り合いへのプレゼント用などに活用しています(布教活動ですね)。

1990年発売のESP/950

今回紹介するESP/95Xは、1990年に発売したESP/950をベースにしたヘッドホンです。ESP/950は当時のKOSSを代表するフラッグシップモデルとして発表され、価格は$999でした。1990年当時の$999は、現在の物価に換算すると約$2000(22万円)相当なので、かなりの高級品だったことでしょう。

KOSS ESPはSTAXと同じような「静電型」ヘッドホンです。大きなサランラップのような振動膜を高電圧で帯電させて、隣接する金属メッシュに対して音楽信号で震わせるので、一般的なダイナミック型や平面駆動型ヘッドホンのように永久磁石と反発させるタイプとは全く異なる仕組みです。

静電振動膜を十分に帯電させるためには600Vもの高電圧(バイアス)が必要なので、それを作るために専用アンプが必要になります。これをSTAXは「ドライバーユニット」、KOSSは「エナジャイザー」と呼んでいます。(ちなみにSTAXは580Vです)。

600Vといっても電力消費が高いわけではなく、ほんの僅かな電流しか消費しないため、9VのACアダプターで駆動できます(アンプ内部のトランスで600Vに昇圧しています)。一般的なヘッドホンが「低電圧・高電流」なら、静電型は「高電圧・低電流」という違いです。

ちなみにKOSS ESPのケーブルはSTAXとコネクター形状は違うものの、信号線自体は同じですから、正しいピンアサインの変換アダプターがあれば、ESPヘッドホンをSTAXアンプで鳴らす、もしくはその逆も可能です。(バイアス電圧が600V・580Vと多少違っても大丈夫です)。このアダプターは自作が面倒で、ニッチなせいでサードパーティの市販品も無駄に高価なので、こういうのをぜひMassdropで作ってもらいたいですね。

Massdrop × KOSS ESP/95X

1990年のESP/950と2019年のESP/95Xでは、異なるポイントがいくつかあります。

まず、イヤーパッドがESP/950ではビニール合皮でしたが、ESP/95Xはベロア調になっています。米国では長年熱心なファンが多いヘッドホンなので、社外品でもいくつか異なるパッドが手に入ります。

ハウジングの外観デザインについては、ハウジングの色が黒から濃い青になったのみで、形状や構造などは全く同じです。(この濃い青は以前ゼンハイザーHD6XXで使われた色と似ています)。質感がチープなのは廉価版だからというわけではなく、もともとESP/950も同じくらいチープでした。KOSSに言わせれば軽量化と合理性ということでしょう。

そもそもKOSSといえば、PortaProに代表されるようにレトロなデザインが人気なので、このESP/95XもKOSSだと知っていれば納得できます。というか、ESP/950自体が1990年としては結構モダンなデザインだったと思います。

海辺で静電型ヘッドホンを聴くのは流行らなかったようです

他の違いとしては、ESP/950に付属していた専用キャリーケース(ビニールのショルダーバッグみたいなやつ)が廃止されました。当時はさらにアンプユニット用の乾電池モジュールが付属していて、ポータブルでも使えるようになっていましたが、ESP/95XはACアダプターのみになりました。今更これをポータブルで使う人もいないでしょうし、乾電池よりもAnkerとかの9Vモバイルバッテリーを使う方が断然良いでしょう。

ようするにアクセサリー類は減らされましたが、それだけで、価格が当時の$999(現在の$2000相当)から$500に下げる事ができたのは凄い事だと思います。

音質面では、Massdrop公式サイトの測定と説明によると、周波数レスポンスのアップダウンをちょっと改善したのみで、全体的な特性はほぼ一致しているということです。

パッケージ

パッケージはDropらしく簡素な白い紙箱ですが、シンプルさが逆に古臭くなくて良いです。アンプユニットも同梱しているので大きな箱で、内部はスポンジで仕切られています。

中身

中身

ヘッドホン本体は未塗装のプラスチック製で、アンプユニットも自作キットみたいなプラスチック箱にプラスチックボリュームノブです。あまりにも軽量でペラペラなので、雰囲気としては家具店とかに置いてあるダミーの家電模型みたいな感じで「え?これで本当に音が鳴るの?」と思ってしまうくらいです。

メインのヘッドホンシステムとして使うにはあまりにも安っぽくて寂しいかもしれません。逆にあまり成金趣味っぽくないシンプルさに魅力を感じる人もいるかもしれません。

本体とアンプユニット・ACアダプター以外では、付属品に短い3.5mm→3.5mmケーブル、RCA→RCAケーブルと、ヘッドホン延長ケーブルが入ってました。

とくにヘッドホンケーブルはコネクター形状が特殊なので、延長ケーブルは嬉しいです。本体ケーブルが0.9m、延長ケーブルが1.8mということで、手近なデスクトップと遠くのオーディオラックのどちらでも使えるのがありがたいです。

ヘッドバンドのロックピン

組み立て後

ヘッドバンドとハウジングが手軽に分離できる仕組みになっているのがユニークです。他社で同じような構造は見たことがありません。

ESP/950の発売当時は、分離して付属ショルダーバックに入れて、出先で組み立てるというポータブル用途も想定していたようです。

ヘッドバンド調整部分にあるボタンを押すことでロックピンが外れる構造で、分離されている状態で梱包されています。ただしヘッドホンケーブルは着脱できないので、ハウジングを分離する際はケーブルを捻ったり無理に引っ張らないよう注意が必要です。

Massdropロゴ

ヘッドバンド調整は緩いです

ヘッドバンドはシンプルな鉄板と合皮製で、調整はスライド式です。スライドがかなり軽くスルスル動くので、装着時に左右を合わせるのがちょっと厄介でした。

またヘッドバンドのロックピンボタンも意外と軽くて、装着時に間違えて押してしまいハウジングがゴロンと外れることもあったので注意が必要です。

イヤーパッド

イヤーパッドはザラザラしたベロアというかファブリック調で、外周のビニールを引っ張って挟む一般的なタイプです。ドライバー前面のスポンジは両面テープで接着してあるので、肝心の静電振動板は見えませんでした。こういうスポンジは経年劣化でボロボロになりがちなので、ちょっと心配です。

45.6cm²という巨大な振動板に、353gの比較的軽量なハウジング、そして完全開放型のおかげで通気性は良好と、装着感は快適で長時間のリスニングに最適です。HD650とかよりも側圧は緩いので、STAXの長方形ラムダシリーズやHifiman Aryaとかに近い印象です。

ただし見て分かる通り遮音性は全くといっていいほど無いので、外部の騒音はそのまま入ってきますし、耳で聴いているのと同じ音量が外側にも漏れています。自室でスピーカー代わりに使うなら良いですが、周囲に人がいるなら相当迷惑がかかります。

エナジャイザー

アンプユニット(エナジャイザー)はアナログライン入力のみで、DACなどは搭載されていませんので、スマホやパソコンなどのソースに接続して使います。

どうでもいいことですが、ESP/950の時はアンプは「E/90」という別モデル扱いだったのですが、ESP/95Xではアンプの方にもESP/95Xと書かれています。

もしかすると当時はアップグレードアンプユニットとかを作る予定で、STAXと肩を並べるほどのラインナップになるはずだったのかもしれません。

私はESP/950を持っていないので、今回のアンプとどれほど違うか比較できないのですが、写真で見る限りでは設計や回路的には同じもののようです。廉価版といって妥協していないのは良いですね。

フロントパネル

フロント3.5mm入力は手軽で便利です

フロントパネルには電源スイッチ、ボリュームノブ、ESPヘッドホン出力、そして3.5mmライン入力があります。

ユニークな点として、多くのSTAXアンプと同様に、ボリュームノブが同軸左右独立タイプになっています。お年寄りなど左右の聴力が違う人にとっては嬉しい機能です。

しかし普通に左右同時にボリュームを上げようとすると結構難しいです。STAXのように左右ノブが半固定になっていて意図的でないと個別に回らない仕組みなら良いのですが、KOSSの場合はそれぞれが全く独立しているため、回す際に注意が必要です。さらに、ノブが結構アバウトでノッチなども無いので、左右が完璧に揃っているか確認するのが難しいため、あまり神経質になるとリスニング中に違和感があり微調整を繰り返すループに陥りがちです。

背面と付属ケーブル

背面RCA入力

背面にはACアダプターとRCAライン入力があります。RCA端子は周囲に余裕があるので、そこそこ太いコネクターでも入りそうです。

ACアダプターはDC9V 1Aと書いてあります。同梱しているものは重量級なトランスタイプなので、それで十分だと思いますが、こういうのをこだわる人なら低ノイズアップグレード電源とかを使ってみるのも面白いかもしれません。

アンプユニットを開けるのは結構面倒です。フロントパネル全面を覆うステッカーを剥がさないとネジにアクセスできません。

フロントパネル裏のネジ

アンプユニット

せっかく自分で購入したものなので、開けてみました。

回路基板は上下二階建てで、今どき珍しいスルーホールの古典的なレイアウトです。

電源のシールド

ライン入力回路

電源とライン入力は下の基板にあります。高圧電源回路はシールド板で覆われているので中身を確認できませんでしたが、ライン入力はデカップリングコンデンサーを通ってオペアンプで受けています。TLE2082CPというTIのJFET入力から同じくTIのSA5532APと、王道でしっかりした設計です。

注意点として、前面の3.5mmと背面のRCA入力は基板上で直結しているため(上の写真で外してあるコネクタが3.5mm用)、両方同時に接続しない方が良いです。入力抵抗も100kΩと高めなので、使っていない方はケーブルを抜いておかないとアンテナとなってノイズが入るかもしれません。

ヘッドホンアンプ回路

上の基板がアンプ回路ですが、左右は完全に分けて、ディスクリートで作動増幅しています。全体的に、電解コンなどもほとんど使っておらず真面目で手堅いデザインで、結構お金がかかっており、少なくともSTAX SRM-252Sと同程度かそれ以上にしっかり作られています。とくに静電型のメリットである位相特性の安定性を活かして立体的な空間定位を出すには、左右チャンネルのセパレーションが肝心なので、アンプ回路もそれをしっかり意図しています。(多くのヘッドホンアンプは意外なほどにセパレーションが悪いです)。

つまり、このアンプは同梱品として十分すぎるほど優れているので、入力コンデンサーとか個々の部品をアップグレードするメリットはあるかもしれませんが(高圧があるので注意が必要ですが)、回路的に完成しているので、これ以上を望むなら少なくとも10万円クラスのSTAXアンプが必要になると思います。

ケーブル変換アダプターを持っていないので今回は無理でしたが、SRM-D10とかと比べてみたいですね。

音質とか

今回の試聴では、いつもどおりHiby R6 PRO DAPと、最近手に入れたdCS Debussy DACで鳴らしてみました。

RCAケーブルで接続

一般的な2V程度のライン出力であれば、ボリュームノブは30%ほどで十分な音量が得られます。もっと上げればとうるさすぎるほど音量が出ます。

たとえばSTAXの場合、一番ベーシックなセットのSRM-252Sだと十分な音量が得られなくて(音量を上げると音が潰れてきて)、結局高価なアンプにアップグレードするはめになりがちですが、ESP/95Xではその心配は不要なようです。

ただしESP/95Xも完璧というわけではなく、ボリューム次第で出音のエッジというかメリハリも若干変わってくるようなので、それはちょっと気になりました。大音量になるほど輪郭がハッキリしてくるということは、アンプよりもヘッドホン本体の特性でしょうか。


タワーレコードから最新リマスターで、クレンペラー指揮フィルハーモニアのドン・ジョヴァンニを聴いてみました。。

名盤なのにEMIからはCD初期の頃から一向にリマスター盤が出ていなかったところ、今年タワー独自企画で出してくれたのは嬉しいです。EMIのドン・ジョヴァンニといえばジュリーニ指揮1959年盤が有名ですが、こちらは1966年で、キャストは当時のベテラン勢が揃い、演奏もジュリーニとは対照的にクレンペラーらしく重厚でドラマチックです。


ESP/95Xで聴いてみると、まず音場の遠さが印象的です。前後の立体感がクッキリと出るというよりは、全体的に耳から遠く離れていて、耳元間近で鳴る音が一切ありません。

ESP/95Xに限らず、静電型ヘッドホンの特徴は「音色の美しさ」と「全帯域に渡る安定感」だと思います。ESP/95Xも例にもれず、音を鳴らした瞬間から「やっぱり静電型は凄いな」と思える説得力がありました。価格は安くても、ちゃんと静電型らしさが体感できます。

音色に関しては、スカスカな軽い音を想像していたところ、意外なほどに中低音が充実している重くゆったりした音色なので驚きました。

特に印象に残るのがヴァイオリン、オーボエ、フルートなど高音楽器の美しい音色です。ツルッと艶っぽいとかキラキラ輝かしいというのとはちょっと違うので、言葉で表すのが難しいのですが、重心が低く、「ビロードっぽい」というか、「艶やか」とでも言うのでしょうか、鈍い金属っぽい厚い質感が何層にも重なっているような、奥深い柔らかな音色です。

スポットライトを浴びるソリストだけでなく、オーケストラで大勢のセクションが遠く左右両端に振り分けられて鳴っていても「綺麗だな」と意識してしまうくらいです。

低音も緩く太く鳴るので、舞台と連動する効果音も迫力があります。アタックが弱く、すべての帯域が丸く柔らかいのですが、その反面、どの帯域でも音色が自然に伸びて、その周辺の空気まで感じ取れ、この一見ふわふわして派手さが無いのに、音が濁らず、臨場感や雰囲気が伝わってくるというのが、ESP/95Xの最大の魅力だと思います。

大きな振動膜から音が鳴っているわけですが、音楽の出音も、ピンポイントというよりも「面」で鳴っているように聴こえます。楽器がマイク越しのような明確な一点ではなく、ステージの遠くからボーッと浮かんでくるような感覚があります。大音量でも刺さるような刺激が少なく、弱音が「どこからともなく」鳴っているような聴こえ方がリアルに感じます。

つまりESP/95Xを気に入るかどうかは、一般的なヘッドホンの鳴り方よりも一歩離れた緩さ、甘さに納得できるかどうかだと思います。

普段コンサートホール一階平土間席で聴いていたのに、急に三階バルコニー席に連れて行かれたような違和感がありますが、慣れると「これは他では味わえないな」と思えてきます。

ヘッドホンマニアとして静電型の楽しみは、普段のダイナミック型とは別の体験ができる事です。派手なオンマイクのスタジオ録音でも、劇場で見ているような余裕があり、歌手やオーケストラのメンバー全員がステージやピットに正しく収まっている風景が思い描けるのが凄いです。各パートの分離が素晴らしく、左右の弦や木管金管など、それぞれの相対位置がまさに生演奏とそっくりです。

歌手はステージ上の移動がしっかりと感じ取れ(実際はマイクのパンなのでしょうけれど)舞台上で走っているドスドスという音とかも、それっぽく聴こえます。歌手が三・四人同時に歌っている場面でも、普段のヘッドホンならそれぞれ個別のマイクで収録している感じがするのですが、ESP/95Xでは同じステージ上で実際に演技しているような雰囲気で伝わってきます。

ESP/95Xに不足している点があるとすれば、高音はあまり刺激的ではないので、滑舌や息遣いのようなリアルな表現が若干不足しており、歌手ごとの声質の個性が伝わりにくいです。とくにオペラを聴いていて「今誰だっけ」と思う事が多かったです。

この「声質」がちゃんと表現できているかどうかという点は、オーディオ機器の優劣を決める重要なポイントなので、そういった意味ではESP/95Xは不完全というか、まるで印象派絵画のように臨場感や雰囲気に全振りで、写実的な生々しさに欠けるヘッドホンとも思えます。

トランペットなどの破裂音も明らかにマイルドなので、音楽の「押し引き」みたいなダイナミクスはあまり強調されません。ドン・ジョヴァンニはもちろんのこと、サロメやエレクトラでさえ優雅に聴き流してしまうような鳴り方、といえばわかるでしょうか。

でも、そんなESP/95Xの鳴り方は実際のライブの雰囲気に近いとも思えるので、つまり普段ヘッドホンでリアルを超えるような超高解像を聴き慣れている我々にとって、このアバウトな雰囲気をもどかしく感じるとすれば、まるでブルーレイのオペラを見慣れていて、実際の生公演では遠くて細部までよく見えない、というのと同じ事なのかもしれません。

ESP/95Xで他にもオペラやクラシックの往年の名盤を沢山聴いてみましたが、実際に当時コンサートホールで聴いたらこんな感じだっただろうな、と、まるでタイムマシーンに乗ったような気分が得られるので、とくに古い録音や懐メロ、歌謡曲とかが好きな人にはオススメできます。

1960年代の古いスタジオ録音でも「こんなに雰囲気豊かに鳴ってたっけ?」と、まるで騙されているような気持ちになります。録音に忠実というよりも、実際の演目が繰り広げられているような、抽象的で不思議な感覚です。


カウント・ベイシーの1957年アルバム「April in Paris」96kHzリマスターを聴いてみました。

この頃のベイシーはメンバーの錚々たるラインナップ、ポピュラーな選曲、スリリングで遊び心溢れるアレンジ、そして近代的な録音技術と全てが揃って、商業的なビッグバンドジャズの最高峰を迎えた時期だと思います。凡庸なアンサンブルジャズではなく、この時代のこのバンドでしか実現不可能な、神がかった作品です。ジャケットも一目見たら忘れられませんね。


このリリースはモノラルなので、さすがの静電型ヘッドホンであっても先程のオペラほどの臨場感やリアルな雰囲気はありませんが、それでもヘッドホンの性能を把握する上で、モノラル音源というのは案外侮れません。多くのヘッドホンでは特定の音域だけ左右に響いたり乱れたり、もしくは全てが一点で混じって不明瞭になったりします。

ESP/95Xは期待通り音像がセンターにピッタリと揃い、全ての音が正しい位置で、同じサイズで、綺麗に分離して鳴ってくれます。一点というよりは、上下縦一直線に広く整列しているような鳴り方で、耳元間近ではなく数メートル先のステージ上といった感覚です。先程オペラで感じた「点ではなく面で発せられた」感じがジャズでもあり、音色の周りに淡い響きが広がるので、モノラルでも狭さは感じません。

高域が丸くロールオフされている点はやはり多少気になりますが、ちょうどよい塩梅なので、聴いていてもどかしさや不満はありませんでした。

つまり、古い録音にありがちなテープノイズや、録音機器に由来するジリジリという歪みや音割れっぽさがほとんど聴こえず、そのおかげで、トランペットやアルトサックスなどの高音楽器の音色が美しく、むしろ聴きやすくなっています。

ソロパートに甘さや味わいがあり、ベイシーのピアノも深みと哀愁が感じられます。そんな抽象的な表現を使いたくなるほど魅力的です。

しかも、ただ甘いだけでなく、普段は隠れてしまいがちなベースラインとギターのカッティング、ドラムのフィルやリズムキープなどが、ホーンがソロをとっている時でも埋もれずに聴こえます。つまり、意外なほどに奥行きの見通しの良さはしっかり持っています。


私を含めて、ヘッドホンマニアとしては、現代の十万円を超えるようなハイエンドヘッドホンと比べて、この古臭い1990年のヘッドホンがどれくらい通用するのか、という点が気になっていると思います。私もそれが知りたくて買ったようなものです。

静電型ということは、当然STAXと比較される事になりますが、STAXだとSRS-3100(SR-L300+SRM-252S)という最安セットが6万円台なので、価格的にはそれがライバルになりそうです。

どちらも静電型の良さは十分に発揮できていると思いますが、鳴り方は大幅に異なり、どちらか選ぶなら断然ESP/95Xの方が好みです。中低域が豊かで、ゆったりリラックスして聴けるESP/95Xと比べると、SRS-3100は線が細く、高音の繊細なディテール重視で、リスニング用としては軽すぎて物足りません。高域の音抜けの良さや、細かい表面の質感などは優れているのですが、録音の表面をなぞっている感じがして、コンサートの雰囲気を上手く出せません。とくに古い録音を聴くとシビアになりがちです。

SRS-3100の弱点は、やはりSRM-252Sアンプだと思います。これよりも上位のSRM-353xなどと比べると貧弱で、音の密度が薄い感じがするので、まるでアップグレードすることを前提にした「お試しセット」のようで、STAXのアップグレードスパイラルに引きずり込まれる心配があります。(もちろんESP/95Xでもケーブル変換アダプターを入手すればSTAX上級アンプに手を出してしまうリスクはあります)。

SR-L300よりも上位のSR-L500・L700は最近Mk2にアップデートされましたが、SR-L500Mk2とSRM-D10やSRM-006tSアンプユニットのセットで15万円程度になり、さすがにこれくらいになると、明らかに解像感やレンジの広さといった部分でESP/95Xよりも優れていると思えてきます。

とくにSR-L500はMk2になってSR-L700との差が縮まり、力強い激しさも備えたモダンなサウンドに進化して、ダイナミック型と静電型の良さを両立するような優れたヘッドホンになりましたが、そこまで行くにはやはり最低15万円を目安にしないとSTAXは難しいです。

面白いことに、STAXの最高峰であるSR-009SとSRM-T8000の100万円セットを聴いてみると、もちろんESP/95Xとは比べ物にならないほど帯域もダイナミクスも高水準ですが、全体的な傾向はむしろSR-LシリーズよりもESP/95Xのように静電型「らしさ」を強調するようなサウンドになっていると思います。

そんなSR-009Sも、SRM-T8000のような優れたアンプユニットで鳴らさないと「こんな高価なのに、この程度のスカスカな音なの?」というサウンドになってしまいがちなので、やはりヘッドホン本体と同じくらいアンプユニットが肝心なようです。

ESP/95Xの魅力である音場の安定感は、HifimanやMrSpeakersのような最近の平面駆動型ヘッドホンでもそこそこ実現できるようになりましたが、やはりまだ静電型に及ばない点もあります。

振動板の質量や永久磁石の存在など、原因は色々あると思いますが、ESP/95Xと比べると、まだヘッドホン依存の余分な音が鳴っている感じがします。とくに平面駆動型ヘッドホンではESP/95Xほどの音色の美しさが引き出せず、ドライで地味な鳴り方になるか、無駄な響きに頼りがちです。Hifiman Susvaraなど相当高価なモデルになれば当然良くなっていきますが、それでも静電型との隔たりは感じますし、なかなか手が出せない価格です。

なにか生涯一台のヘッドホンに絞るならSusvaraとかでも良いかもしれませんが、ヘッドホンマニアとしてあれこれ楽しみたいなら、むしろどっちつかずで中途半端かもしれません。それならESP/95Xとダイナミック型を両方持っていた方が安上がりで楽しみ方が広がります。

音場の安定感を犠牲にしてでも音色の美しさを求めるなら、ダイナミック型ヘッドホンの方が良い場合が多いです。HD800やオーテクATH-ADX5000など、優れたダイナミック型ヘッドホンが沢山ありますが、これらは平面駆動型ヘッドホンと比べて音色の輝きや色艶が期待できます。

とくに、ダイナミック型ヘッドホンらしい魅力というのは、強烈なエネルギーとか、張り詰めた空気のテンション、ダイナミックな息遣いにハッとさせられるというようなスリリングな感覚で、ESP/95Xはそこが弱いです。

古くにはベイヤーダイナミックT1のように金管楽器に特化した美音だったり、HD800はドラムやピアノなど打楽器が素晴らしく、AKG K701シリーズはギターやヴァイオリンなど弦楽器の鳴り方が美しい事が有名で、現在でも人気モデルです。

それらに共通している点として、高音の情報量が多いので、ESP/95Xはそのあたりが何か不足しているように感じてしまいます。

とくに、普段聴くアルバムでテープノイズが聴こえるのに慣れている人には物足りなく感じるかもしれません。そういった「シューッ」とか「サーッ」というノイズは感覚的にリスナーの頭上の空間に現れやすいので、ESP/95Xでは頭上が無音すぎて、ぽっかり穴が空いているように聴こてしまい、それが「高音の情報が足りない」という感覚を強めているようです。

一方、ESP/95Xはそのようなダイナミック型ヘッドホンとくらべて聴き疲れしにくいので、ずっと音楽を聴いていられます。刺激を求める血気盛んなヘッドホンマニアには向いていませんが、演奏をボーッと眺めるように延々と聴いて味わうような使い方には最適です。

不満を挙げればいくらでも出てきますが、それら全てを帳消しにできるくらい、リスニングの魅力に溢れたヘッドホンです。ここまでマニアックなヘッドホンを欲しがる人はすでに優れたダイナミック型ヘッドホンとかを持っているでしょうから、それを基準に良い悪いとするのではなく、むしろそれとは全く別の音楽の楽しみ方をもたらしてくれるヘッドホンだと思います。

おわりに

買おうかどうか散々決めかねていたKOSS ESP/95Xですが、割引の誘惑に負けて結局手を出してしまったところ、結果的に静電型らしさが存分に堪能できる素晴らしいヘッドホンで大変満足しています。

サウンドは最新機種ほどの緻密な解像度はありませんが、それも10万円クラスのハイエンドヘッドホンと比較しての話です。これほどのヘッドホンが$400で買えるという事実が驚異的なので、コストパフォーマンス重視の人なら無視できない存在です。

とくに、アンプとセットでこの価格というのは、他社で実現するのは到底困難です。たとえば同じくMassdropのHD6XXが$220で、それに$200程度のアンプをあわせたとしても厳しいと思います。

音質の良し悪しというよりも、静電型ヘッドホン特有の柔らかくスムーズな音色は、一般的なヘッドホンでは絶対に得られません。それらのアップグレードスパイラルとは無縁の独自の地位を確立していることが最大の魅力です。

とくにハイエンドヘッドホン入門機として「アンプ同梱」という意義は大きいです。たとえばFiio MやソニーAシリーズなど、DAC部分は優秀でもアンプ回路が非力で単体で大型ヘッドホンを鳴らすには厳しい、というDAPを使っている人でも、そこからライン出力でESP-95Xに接続すれば良いです。

最近のサブスクリプション・ストリーミングアプリなどを使っている人なら、DAPとESP/95Xだけで、余計な事は考えずに最短ルートで据え置きリスニングシステムが完結します。

なんだかしっくりきます

もしくは、Chord Hugo 2とかiFi Audio micro iDSD BLのようなDACアンプがあれば、サイズ的にもちょうどピッタリなので、背面のRCAライン出力をESL/95Xにつなげておいて、普段のヘッドホンと静電型の両方を鳴らせるコンパクトシステムが出来上がります。

なんにせよ趣味の世界なので、上を見ればキリがないですが、イヤホン主体のポータブルリスニングとは別に、なにか家庭で落ち着いて使えるシステムが欲しい、夜中にスピーカーの代用として使えるシステムが欲しい、なんて思っている人なら、ESP/95Xの満足度は高いです。後にどれだけ高級なダイナミック型ヘッドホンを買ったとしても、静電型特有の魅力を真似する事は無理なので、そういった意味でも、とりあえず別腹で押さえておいて損はないヘッドホンだと思いました。

それにしても静電型ヘッドホンは面白いです、ペラペラなプラスチック製でコストパフォーマンスの代名詞みたいなKOSSと、比較されるのが職人技の極みのような最高級ブランドSTAXというのが、業界の懐の深さを表しているようです。