USB DAC搭載デスクトップヘッドホンアンプ「HDVD800」の後継機として2017年9月に登場したモデルで、価格は約30万円だそうです。
HDV820 |
ゼンハイザーといえば、HD800やHD650など数多くの名作ヘッドホンを創り上げた、ヘッドホン業界を牽引するリーダーです。現行フラッグシップのHD800Sをメインヘッドホンとして愛用しているファンは多いと思いますが、どんなアンプで鳴らすかが悩みの種です。そんな時こそ、このHDV820がゼンハイザー公式のパートナーということになります。
HDV820
ヘッドホンアンプというのはヘッドホン本体に対するアクセサリーのようなものなので、単独での評価というのは難しい、というか実際あまり書くことが思い浮かびません。音質への影響はヘッドホンそのものの方がはるかに大きいですし、相性が肝心です。とくにHDV820のような「大手メーカー製コンセント電源トランジスターアンプ」は、よっぽど変な設計ミスでもしないかぎり、出力も周波数特性も歪み値もノイズフロアも、ヘッドホン本体の測定限界をはるかに凌駕するスペックを実現出来ているので、どれを選んでも正解と言えます。バッテリー駆動もしくは変なガレージメーカーのアンプとかでもない限り、ノイズや出力に悩まされるなんて事は無いでしょう。
そんなわけで、HDV820を数時間試聴してみたのですが、これといって悪い点も見つからず、まあ普通に優秀なアンプだな、という感想になりました。そこで旧モデルHDVD800との比較が主になります。
HDVD800は2012年に登場したので、もう5年前の製品になりますが、当時から今までずっと約27万円という値段をキーブしており、目立った値崩れもしていないロングセラーモデルです。爆発的ヒットというわけでは無いものの、主にHD800ユーザーのパートナーとして着々と売れ続けているのでしょう。
HDVD800はUSB DACを内蔵していますが、DACの無いアナログ入力ヘッドホンアンプのHDVA600というモデルもありました。デジタルのDとアナログのAということだと思います。
自分好みのUSB DACをすでに持っている人も多いと思うので、アナログ入力のみで価格を17万円に抑えたHDVA600の存在は嬉しかったです。
HDVD800とHDVA600はおよそ10万円の差がありましたが、率直に言うと、HDVD800のDAC部分は10万円の価値があるとは思えなかったので、それを買うよりはHDVA600と差額で別のUSB DACを買ったほうが良いと思いました。
つまり、アナログアンプ部分の音は気に入っていたのですが、HDVD800のDACはサウンド面と機能面の両方であまり出来が良くないという印象がありました。その辺が新型でどう変わったのかが気になるポイントです。
今回登場した新型モデルはHDV820なので、曖昧なネーミングなのですが、USB DACを搭載しているので、実質的にHDVD800の後継機です。今のところHDVA600の後継機といえるアナログアンプのみのモデルは無いみたいです。
HDVD800とHDV820 |
HDVD800発売当時、ゼンハイザーの最上位ヘッドホンはHD800だったので、同じテーマカラーのシルバーに揃えていますが、現在はHD800Sに交代したので、それと合わせたマットブラックになっています。それならば名前もHDVD800Sとかにすればよかったのに、ネーミングのルールがイマイチよくわかりません。
もう一つ気になるポイントは、HDVD800の天板にあったガラス窓がなくなりました。真空管アンプでもないので、窓を覗いても地味な基板だけで大した物が見えるわけでもなく、あまり意味がないデザインでしたから、無くなっても困ることはありません。
なんと4.4mmもあります |
HDV820の一番の注目点は、フロントパネルにあるヘッドホン接続端子類が大幅に変更されたことでしょう。とくに、一見6.35mmに見える二つの丸端子は実は4.4mmバランスだということに驚きます。
昨年ソニーウォークマンやMDR-Z1Rヘッドホンで発表された4.4mm・5極バランスプラグ(通称Pentaconn)は、またソニーが得意な排他的独自規格かと多方面で非難されていましたが、実は水面下でしっかり共闘関係の根回しが行われていたようです。
数ヶ月前のHDV820試作モデルの時点で4.4mm搭載しており、これと同時に新型ヘッドホンHD660SやIE800Sなどでも4.4mmバランスケーブルを付属するなど、かなり積極的にスタンダードとして採用しはじめています。
個人的な感想として、この4.4mmという端子は、ヘッドホン用として今後スタンダードになるなら悪くない選択肢だと思います。もちろんスマホなどの薄型デバイスに採用されることは無いでしょうし、今のところ端子単体の価格が高すぎて参入しづらいですが、XLRコネクタでは不必要に重く太く、2.5mmバランスは貧弱でグラウンド無し4極なのでノイズに悩まされます。その中間になる4.4mm 5極というのは、実際に使ってみるとなんだか良い感じで愛着がわきます。
ヘッドホン端子が大幅に変更されてます |
今のところHD800Sヘッドホンの公式バランスケーブルは4ピンXLRです。そのためHDV820では4ピンXLRと4.4mmバランス出力の両方が用意されているのが嬉しいです。
ちなみにアンバランスヘッドホンを接続するには、一番左の3ピンXLR&6.35mm共用の、通称「コンボジャック」を使います。プロ用オーディオ機器などでは頻繁に目にする形状ですが、家庭用オーディオでは珍しいかもしれません。
ところで、オーディオマニアならば「あれっ?」と真っ先に気になるのは、なぜ3ピンXLR端子がひとつだけあるのか、という事です。深読みすると、HDV820を二台買うことで、一昔前に流行っていた3ピンXLR×2のデュアルモノラルバランス接続という贅沢な使い方なんかが思い浮かびます(たとえばQuestyle CMA800Rはそういう構成です)。しかしHDV820の背面パネルを見てもそんな連携接続は考慮されていません。
これは単純に、HDVD800と同じアルミ鋳型や基板デザインを使いまわすために、以前4ピンXLRがあった場所を6.35mm端子に作り変えるくらいなら、コンボジャックにしたほうが手軽だったのでしょう。ちなみにコンボジャックの性質上、説明書によると、1:GND 2:L+ 3:R+の配列でアンバランス3ピンXLRヘッドホンケーブルを使えるそうです(誰が使うのか知りませんが)。
ともかく、一通りの出力端子が揃っているので不満はありませんが、個人的に強いて要望があるとするなら、4.4mm出力は二つも必要無いので、できれば片方を3.5mmとかにしてくれたら、変換アダプターを探すヒマが省けるので便利だったと思います。
HDVD800(上)とHDV820(下) |
背面を見ると、端子類の配列がけっこう変更されており、中身の基板設計が見直された事がわかるので、単なるマイナーチェンジではなく色々な試行錯誤があったのだろうと想像できます。主な変更点としては、唯一AES/EBUデジタル入力端子が削除されました。
AES/EBUは高電圧差動信号なので10mとかの長距離伝送には有利ですが、原理的にツイストペアケーブルなので同軸ケーブルと比べると高速になるほど不利になってしまい、近頃の96kHz・192kHzハイレゾPCMでは結構厳しいところがありました。見た目がプロっぽいからと好んで使っている人も多いですが、クロック同期が無いと意味も薄れますし、業務用はもうMADI I/Oに世代交代してますから、やはり時代とともに消え去るのが妥当だと思います。その点同軸ケーブルは品質さえ良ければ192kHzも十分対応可能なので、まだまだ2chステレオ用途では現役です。
アナログ入力はXLRとRCAがありますが、HDVD800はアナログ入力信号の上限に十分なマージンがなく、電圧が高めのラインソース(Chordとか)だと音がクリッピングで潰れてしまう事があったので、わざわざ入力トリムノブがありました。HDV820も同じノブがあるので、アナログ入力で使う場合にはこれの調整に注意が必要です。
公式スペックではトリムを最小に絞った状態での最大入力信号は20dBV(つまり10Vrms)と書いてありますが、標準的な推奨入力信号については記載されていません。たぶん2Vrmsだと思うので、3Vrmsとかの機器を接続する場合はクリッピング歪みに注意が必要です。
スマホOTG接続が使えるのが嬉しいです |
私が旧モデルHDVD800をあまり良く思わなかった最大の理由が、USB DACの完成度が不十分だと思ったからです。今回HDV820を使ってみたところ、その部分が大幅に改善されていることが確認できたので、とても満足しています。
音質については後述しますが、機能面では、HDVD800はスマホなどのOTG接続は認識せず、まともに動きませんでした。今回の試聴でも、HDVD800では動かず、HDV820ではちゃんとスマホからハイレゾやDSDも鳴らせました。
また、パソコンからのUSB入力もHDV820ではしっかり動作して、高レートDSDなども問題なく再生できます。Windowsドライバー類もiFi AudioなどとそっくりなXMOS系なので安心して使えます。こういった初歩的なスペックの部分で、HDVD800ではプチプチノイズやフリーズなどのトラブルを何度も経験していたので、それが解消されてまともにハイレゾDACとして使えるようになったのが嬉しいです。
光入力はダメでした |
接続に関して、一つトラブルに遭遇したのはS/PDIF入力の方でした。テストに使ったQuestyle QP2R DAPは光デジタル出力が出せるものの、残念ながらあまり信号品質が良くないため、過酷な接続テスト用として重宝しています。たとえば普段からレファレンスとして使っているSIMAUDIO MOON 230HADにQP2Rを光接続してみたところ、96kHzでも問題なく聴こえましたが、HDV820ではプチプチ音がして同期が頻繁に切れました。もちろん問題はQP2Rの方にあるのですが、HDV820はソースに左右されやすく、ジッター耐性があまり良くないということです。
出力
アンプの出力特性を測ってみました。アナログ入力はソース電圧によって出力が変わるので、今回は無視して、純粋にデジタル入力にフルスケール信号を送った時の出力電圧を測ってみました。いつもどおり0dBFSの1kHzサイン波信号で、ボリュームを音割れするまで(約<1%THD)上げた状態でのPeak to Peak電圧です。参考までに、近くにあったDAPのAK70 MK IIと、似たような卓上DACヘッドホンアンプのQuestyle CMA400iを同じ条件で比べてみました。
出力電圧 |
まず出力電圧ですが、さすがコンセント電源の据え置きアンプなだけあって、かなりの高出力が望めます。さらに、バランス出力だとぴったりアンバランスの二倍の電圧が出ているので、電源部が頭打ちせずしっかり余裕を持って造られていることがわかります。無負荷ではそれぞれ52Vpp、26Vppも出せました。これならどんなヘッドホンでも問題無さそうです。CMA400iを見ると、低インピーダンス側はほぼHDV820を追従しているのですが、50Ω以上では電圧の設計上限にぶつかってしまい、それ以上は出ていません。それでも30V以上出ているので、実際そこまで必要かという疑問はあります。AK70 MKIIのようなDAPはバッテリー駆動なのでコンセントアンプとくらべるとやはり分が悪いですね。
1Vppで負荷を変えたグラフ |
ボリュームノブを1Vppに合わせた状態でヘッドホン負荷を変えてみました。ご覧の通り、HDV820は最近のヘッドホンアンプとしては異例の高インピーダンス特性です。(ちなみにバランスとアンバランスはほぼ重なっています)。
たとえばCMA400iを見ると、かなり低いインピーダンスまでしっかり1Vを維持するような、いわゆる今時の低インピーダンス設計になっていますし、AK70 MKIIも同様ですが、バッテリー駆動のDAPということで、10Ω負荷くらいで一気に電流不足に落ち込みます。
音質とか
HDVD800とHDV820をパソコンからUSB入力で聴き比べてみたのですが、基本的にほとんど同じサウンドのようです。私の感想としては、ちょっとだけHDV820の方が良い音だと思えました。4.4mmでソニーMDR-Z1R |
ヘッドホンはHD800・HD800Sはもちろんですが、せっかく4.4mmもあるのでソニーMDR-Z1Rも使ってみました。どれもボリューム30%くらいで満足に駆動できます。
一緒に試聴した人の中には、HDVD800とHDV820の音は同じだという感想もあったので、やはりそこまで大きな違いは無いようです。
そもそもゼンハイザーがHD800など自社製ヘッドホンの評価レファレンスとして開発したアンプなわけですから(たとえばオーディオショウのデモブースなどでも使われるので)、そう安易にコロコロとサウンドチューニングを変更しては駄目でしょう。
それでもやはり新旧でサウンドの違いは感じられ、HDV820の方がスムーズで聴きやすくなったように思います。特に高音の女性ボーカルやヴァイオリンなんかの音色がHDVD800では耳障りに感じるもどかしさや違和感があったのですが、それがHDV820では解消されました。トーンが綺麗で澄んでいて、より細かい領域まで無理なく聴き分けられます。エッジのキツさや押し付けがましさが低減したので、たとえHD800でも長時間ゆったりと音楽を楽しめます。
これはたぶん、アンプというよりもUSB DAC部分が改善されたことによる効果が大きいと思います。HDVD800がバーブラウンPCM1792Aで、HDV820がESS ES9018Sだそうですが、D/Aチップのみでなくインターフェースを含めて作り直されたことで、より後続するアンプにふさわしい回路になったと想像します。
思い起こせば、数年前にHDVD800とHDVA600を聴き比べた時(というかHDVD800のアナログ入力でも良いのですが)、アナログアンプ単体としてはスムーズで丁寧なサウンドで気に入ったのに、HDVD800で内蔵DACを通すと音に不満がでてくるという結論に至りました。
今回HDV820では内蔵DACが進化したことで、あえて別途DACと組み合わせて使うメリットも薄れ、オールインワンとして十分に優れたモデルになったようです。外部DACを接続するよりも、むしろ内蔵DACを使ったほうが電源や信号回路が最短で済むので、HDV820のフルバランス・ヘッドホンアンプ回路を最大限に活かせる、一番ストレートなサウンドが味わえると思います。
もちろんRCA・XLRアナログライン入力も備わっているので、他社の個性的なDACや高価なオーディオケーブルとかで濃い味付けを楽しむことも出来ます。さらにXLRライン出力もあるので、ここからアクティブスタジオモニタースピーカーやパワーアンプに接続して、スピーカーオーディオシステムのための優秀なUSB DACプリアンプとしても応用できます。
ようするに、たとえばOPPO HA-1やフォステクスHP-A8、パイオニアU-05など、10万円弱クラスの「USB DACプリ・ヘッドホンアンプ複合機」からアップグレードを考えているならば、死角の無い有力な候補になりました。もちろん値段が30万円だからといって音質が確実に上というわけではないので、その辺は実際に試聴して納得する必要があります。
私が試聴した感想としては、HDV820のサウンドはOPPO HA-1とかよりも音色にちょっとした色気や艶が乗っていて、とにかくクリアでスムーズな聴きやすいサウンドだと思いました。先ほどデジタル入力で使ったSIMAUDIO MOON 230HADとも似たような雰囲気のサウンドなので、個人的に好きなスタイルです。特にHD800ヘッドホンなんかはHA-1だとドライで面白みに欠けた「高解像測定器」みたいなサウンドになってしまうのですが、HDV820では歌手の歌声にツルッとした質感が乗って、過剰にならない程度に美音にしてくれます。HD650のような重心の低い素朴なサウンドでも、そんな艶っぽい質感が有利に働いてくれます。
なにか不満があるとすれば、壮大な迫力とか力強い音楽の自己主張の強さみたいなものとは方向性が違うと思います。具体的には説明しづらいので抽象的になってしまいますが、音楽に込められた荒っぽさとか生のエネルギーみたいなものが控えめです。
個人的なメインヘッドホンアンプとして愛用しているV281や、他にも使う機会が多いSIMAUDIO MOON 430HADなどと比べると(DACではなく純粋なアナログアンプとして)、それらはHDV820ほど音色を整える効果は無いのですが、音響全体の実在感やスケールは優れていると思います。たぶん私がよく聴くクラシックとかの、ステレオマイクのみでスタジオミックスが極力無いような録音では、V281とかの方が生に近い荒っぽさも表現できる一方、HDV820では平凡に感じます。しかし、たとえばバンドメンバーのテイクをミックスした破綻した音場とかでは、V281では不快で違和感が耳につくのですが、HDV820では気にせず音楽そのものを楽しめます。
同社ヘッドホンのレファレンスアンプとして、どんなことがあっても絶対不快になったり破綻してはいけない、というポリシーを念頭に置いているせいか、私としては、良好な生録音であるほど「あと一押し」なにかスパイスが足りないような気持ちがあります。
そもそもゼンハイザーのヘッドホン自体がスムーズな美しさをあまり強調しないタイプのサウンドなので、HDV820はそれを補うような、さすがメーカー公式だと納得できる絶妙なコンビネーションだと思います。あくまでオーディオイベントや試聴会での常時稼働の酷使に耐えうる、運搬も設置も場所を取らず、どんな入出力でも対応できる、レファレンスアンプとして正解を目指したアンプです。(このへんはソニーのTA-ZH1ESもコンセプトは似ています)。
悩んだ末に変な方向性に進んでしまうよりは、HDV820をとりあえず持っておけば、変に気を使わずに済む万能ヘッドホンアンプとして頼れる商品だと思います。